Ep.17 ここはお前の家でもあるだろ。
「上等だ」
問題は、どうやって使うかだ。
スプリンクラーが生きている。それだけで目の前の機械が勝手に壊れてくれるほど、この世界は都合よくできていない。
だが、水そのものが目的じゃない。
俺は視線を巡らせた。
渡り廊下の先。壁際に赤い非常灯、その下に古い防火設備の操作盤がある。さらに奥には防火扉。火災時に区画を分断するための、分厚い鋼鉄製の扉だ。
五年前から開いたままになっているが、電気が戻った今なら――。
「ピコ、防火扉も動くか?」
『作動回路への通電は確認しています。ただし、実際の閉鎖動作は未確認です』
「十分だ」
『十分ではありません』
「今は十分なんだよ」
四脚兵器が一歩踏み出した。
カン。
床を叩く硬質な音が、廊下に反響する。
銃身は俺へ向いている。
さっきまでとは違う。
アイへの射線を塞いでいる俺を、明確に排除しようとしている。
「アイ」
「うん」
「俺が走ったら、ピコと一緒にあっちまで走れ」
防火扉の向こうを指す。
アイもそちらを見る。
「おじさんは?」
「すぐ行く」
「また、すぐ?」
「今度は本当にすぐだ」
アイは不安そうに俺を見る。
「一緒がいい」
「分かってる」
俺は目の前の四脚兵器から視線を外さないまま答えた。
「だから、向こうで待ってろ」
少し間があって。
袖を掴んでいた指が離れた。
「……わかった」
「ピコ」
『準備しています』
「三、二、一で行く」
『了解』
消火斧を握る手に力を込める。
目の前の機械まで三十メートル弱。
こっちには銃弾がない。
向こうにはある。
まともに考えれば勝負にもならない。
だから、勝負をしなければいい。
「三」
四脚兵器の銃身が微かに動く。
「二」
赤い光が俺の胸元をなぞる。
「一」
息を吸う。
「走れ!」
三人が同時に動いた。
俺は右。
アイとピコは左。
四脚兵器の銃身が一瞬だけ迷う。
俺か。
アイか。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
『――IS-003』
銃身がアイを追う。
「こっちだ!」
俺は手にしていた消火斧を投げた。
斧が回転しながら廊下を飛ぶ。
狙いなんてない。
当たれば儲けもの。
金属音。
斧は四脚兵器の胴体にぶつかり、黒い装甲を滑って床へ落ちた。
傷一つついていない。
だが、赤い光が俺へ戻る。
「そうだ。俺を見ろ」
銃声。
身体を投げ出す。
弾丸が頭上を抜け、背後の窓ガラスを粉々に砕いた。
床へ肩から落ちる。
痛い。
右腕の傷まで一緒に疼いた。
「っ……!」
起き上がる。
アイはもう防火扉の向こうだ。
ピコもいる。
「ピコ!」
『作動させます』
操作盤の警告灯が点滅した。
ビーッ、ビーッ、と聞き慣れない警報が病院中へ鳴り響く。
アイが驚いて天井を見上げた。
「なに?」
『火災警報です』
「かじ?」
『後ほど説明します』
天井から音がした。
ガコン。
続いて、廊下の奥。
長年動いていなかった機構が、錆を削りながら目を覚ます。
防火扉がゆっくりと動き始めた。
「動いた……!」
遅い。
想像以上に遅い。
四脚兵器も気づいた。
黒い脚が床を蹴る。
走ってくる。
「もっと速く閉まれよ!」
『設備に要求してください』
「今してる!」
俺も走る。
防火扉との距離、十五メートル。
敵は後ろ。
十メートル。
扉が半分まで閉まる。
アイが向こう側から俺を見ている。
「おじさん!」
「そのままいろ!」
背後から金属音。
近い。
振り返らない。
あと五メートル。
銃声。
右側の壁が弾けた。
破片が首筋を掠める。
三メートル。
扉の隙間が狭くなる。
「ピコ!」
『残り約一・四メートル』
「俺の幅じゃねえ!」
『扉の開口幅です』
「分かってるよ!」
最後の数歩を全力で蹴る。
身体を横にする。
隙間へ飛び込む。
床を滑った。
直後。
四脚兵器も飛び込んできた。
「閉まれ!」
重い衝突音が響いた。
防火扉が四脚兵器の前脚を挟み込む。
金属同士が激しく擦れ、耳障りな音が廊下に響いた。
黒い脚が暴れる。
一本。
その隙間から胴体の一部と赤い光が覗いている。
『――IS――003――』
「しつこいんだよ……!」
俺は床に転がったまま、近くにあった金属製の椅子を掴んだ。
持ち上げる。
挟まった脚へ叩きつけた。
一度。
金属音。
二度。
「おじさん」
「来るな!」
三度目。
関節部から火花が散った。
それでも脚は引っ込まない。
向こう側で機体が防火扉へ身体をぶつけるたび、扉全体が震える。
『主様、離れてください』
「なんで!」
『閉鎖機構へ過負荷が発生しています』
「それ先に――」
ガンッ。
防火扉が数センチ押し戻された。
赤い光が見える。
まずい。
俺は椅子を捨てて後退した。
「アイ、下がれ!」
アイが二歩、三歩と後ろへ下がる。
ピコも高度を上げた。
その瞬間。
天井から大量の水が降ってきた。
「うわっ!」
冷たい。
スプリンクラーだ。
一本だけじゃない。
渡り廊下一帯の散水設備が一斉に作動し、薄暗い病院の中へ雨のように水を撒き始める。
床が見る間に濡れていく。
アイが両手を広げた。
「みず!」
「今は喜ぶとこじゃない!」
「でも、いっぱい!」
『アイ。後退を継続してください』
「うん!」
妙に楽しそうな返事をしながらも、今度は素直に下がっていく。
俺も距離を取った。
防火扉の向こうでは、四脚兵器がまだ暴れている。
水が黒い装甲を伝い、床へ落ちる。
壊れない。
当然だ。
軍用兵器がスプリンクラー程度でショートするなら、雨の日は戦争にならない。
だが。
「ピコ」
『はい』
「次だ」
『準備しています』
俺は床を見る。
水が広がっている。
そして、その先。
壁際には、壊れかけた電源設備。
五年前のまま放置されていた配線の一部が、剥き出しになっている。
電気が戻ったからこそ使える。
そして、電気が戻ったからこそ危険なもの。
「できるか?」
『該当区画のみであれば可能です』
「俺たち側まで流すなよ」
『保証はできません』
「おい」
『旧設備です』
「……だよな」
俺はアイを見る。
「もっと下がれ」
「どこまで?」
「足元が乾いてるところまで」
アイが床を見ながら後ろへ下がる。
「ここ?」
「もうちょい」
「ここ?」
「そこ」
俺も水から離れる。
ピコが壁際の設備へ飛んだ。
細いアームを伸ばす。
『実行します』
「やれ」
バチン。
何かが切り替わる音。
一瞬だけ何も起きない。
次の瞬間。
水浸しになった廊下の向こうで、青白い火花が走った。
四脚兵器の身体が跳ねる。
『――――』
音声が途切れた。
赤い光が激しく明滅する。
黒い四本脚が痙攣するように床を叩き、防火扉に挟まっていた一本が力を失った。
焦げたような臭いが漂う。
数秒。
赤い光が消えた。
静かになった。
スプリンクラーの水音だけが残る。
俺はしばらく動けなかった。
「……止まった?」
アイが俺の後ろから顔を出す。
「たぶんな」
『機体からの電波発信が停止しました』
「じゃあ止まったってことでいいだろ」
『機能停止と完全破壊は異なります』
「今日くらい俺を安心させろよ」
『事実と異なる報告はできません』
「知ってるよ」
息を吐く。
一機。
ようやく一機だ。
しかも倒したというより、病院の設備を総動員して無理やり止めただけ。
外にはまだいる。
脚を壊したやつ。
銃身を壊したやつ。
センサーを壊したやつ。
無傷の個体もいる。
そしてM-68は空。
とてもじゃないが、全部相手にできる状況じゃない。
『主様』
ピコがこちらへ戻ってくる。
「今度は何だ」
『外部の三機が移動を開始しました』
「……どっちへ」
『病院を包囲するように分散しています』
予想はしていた。
それでも、実際に聞くと胃が重くなる。
「逃げ道を潰してるのか」
『その可能性があります』
「賢いな」
『旧軍用自律兵器としては妥当な行動です』
「褒めてねえよ」
俺は濡れた髪を掻き上げた。
どうする。
正面玄関は駄目。
搬入口も駄目。
北側には非常階段から一機侵入してきた。
このまま病院の中を逃げ回っていても、いつか追い詰められる。
それに。
俺はアイを見る。
こいつらの目的がアイなら、病院に留まり続ける限りここへ集まってくる。
今日は五機。
次も五機とは限らない。
十機かもしれない。
もっと来るかもしれない。
アイも、俺の視線に気づいた。
「……おじさん」
「なんだ」
「アイのこと、さがしてる?」
返事に詰まった。
誤魔化す意味はない。
もう本人も見ている。
「……たぶんな」
「なんで?」
「分からん」
「アイが、なにかした?」
「それも分からん」
アイは黙る。
さっきまで水を見て少し楽しそうにしていた顔から、表情が消えていく。
小さな手が、自分の服の裾を掴んだ。
「アイがいるから?」
「何が」
「あれ、くる?」
胸の奥が嫌な感じにざらついた。
「まだ分からねえよ」
「でも、アイのこと、さがしてた」
「……ああ」
「おじさんは、さがしてなかった」
「そうだな」
「ピコも」
『私に対する優先度は低いと推定されます』
「ピコ」
『事実です』
アイは俯いた。
長い沈黙ではなかった。
ほんの数秒だ。
それでも、その数秒の間にこいつが何を考えているのか、なんとなく分かってしまった。
だから。
次の言葉が出る前から、腹が立った。
「アイ、ここにいないほうがいい?」
やっぱり。
「……なんでそうなる」
「だって」
アイは顔を上げる。
「ここ、おうちでしょ」
「ああ」
「あれ、アイをさがしてる」
小さな指が、廊下の向こうを指した。
動かなくなった黒い兵器。
「アイがいなくなったら、あれもいなくなる?」
分からない。
たぶん。
可能性は高い。
理屈だけで考えれば、そうだ。
こいつらがIS-003を追っているなら、アイが病院から離れれば追跡対象も移動する。
この場所は助かるかもしれない。
俺も。
ピコも。
でも。
そんな理屈を七歳くらいにしか見えないこいつが、自分から口にするのが気に入らなかった。
「勝手に決めんな」
「でも――」
「ここはお前の家でもあるだろ」
アイが止まった。
水色の瞳が、少しだけ大きくなる。
「……アイの?」
「そう言っただろ」
「でも、あれがくる」
「だからって、お前だけ出ていけば解決って話にはならねえよ」
「なんで?」
「お前一人でどこ行くんだ」
アイが黙る。
「飯はいらない。水もいらない。寝なくても平気。たぶん、お前だけならどっかで生きていけるのかもしれない」
言いながら、自分で嫌になる。
それは確かに、アイなら可能なのかもしれない。
でも、生きていることと。
一人でいていいことは別だ。
「でもな」
俺はしゃがんだ。
アイと目線を合わせる。
「ここにいていいって言ったのは俺だ」
アイが俺を見る。
「だから、お前が勝手にいなくなるのは駄目だ」
「……おじさんが、きめる?」
「俺も決めない」
「じゃあ、だれ?」
「三人で決める」
アイが瞬きをする。
俺はピコを見る。
ピコの黒い画面には、いつもの二本の青い光。
『私も含まれていますか』
「当たり前だろ」
『確認しました』
「そこは普通に喜べよ」
『喜悦を表現する必要性を検討しています』
「もういい」
アイが、ほんの少し笑った。
それでいい。
今は、それで。
俺は立ち上がった。
「ただし」
現実は変わらない。
外にはまだ敵がいる。
弾もない。
病院の位置も知られた。
これまでみたいに、近場を回って食料を拾って帰るだけじゃ済まなくなった。
「ここにいるなら、ここを守る方法を考えないとな」
「まもる?」
「ああ」
腰のM-68を軽く叩く。
「まず弾だ」
空の銃が、乾いた音を返した。
「それから、あいつらが何なのか。なんでお前を狙ってるのか」
アイが俺を見る。
「わかる?」
「分からん」
「……また、わからん」
「うるせえな。これから調べるんだよ」
「どこで?」
その問いに、すぐには答えなかった。
頭の中に、地図を思い浮かべる。
俺たちが普段探索している範囲より、もっと先。
警察施設。
戦時中に使われていた検問所。
旧軍の補給施設。
危険だから避けていた場所はいくつもある。
今までは行く必要がなかった。
でも。
もう、そうも言っていられない。
「遠くまで行く」
「とおく?」
「ああ」
「バイクで?」
「ああ」
アイの顔が少し明るくなる。
「三人で?」
俺は答える前にピコを見る。
『反対しても同行するものと推測します』
「よく分かってんじゃねえか」
それからアイを見る。
「三人でだ」
「うん!」
返事だけはやたら元気だった。
外にはまだ兵器がいる。
ここから出る方法すら、まだ考えていない。
それでも。
少なくとも一つだけ決まった。
逃げるためじゃない。
ここへ帰ってくるために。
俺たちは、今までより遠くへ行かなきゃならない。




