天正十一年の織田軍の現在位置
越後。
金森長近、雁金城。
新発田重家、新発田城。
五十公野信宗、五十公野城。
本庄繁長、村上城。
上条政繁 上条城。
色部長真、平林城。
新潟城城代、佐久間盛政。
なお、越後の東部にある津川城は国境を接する蘆名氏の臣、金上盛備が主である。
信長は天正九年拝謁に来た盛備の才を高く評価しており、越後占領に際し、織田家に仕えるように求めたものの、盛備は謝絶している。
駿河。
駿河国、江尻城を居城とし、甲斐と駿河に領地を得ていた穴山梅雪こと穴山信君の子竹千代が正式に武田家当主として承認され、武田信家と名乗る。
史実では信治であるのだが、ここは信長、家康から一字ずつもらい、信家とした。
これによって名門武田の名は残った。
十万石にも満たない石高ではあるのだが、武田の名は残った。
余り知られていないのだが、史実でも武田の名を残す努力はされ、刺し雄的には家康の子が名を継ぐ形で武田の名は続くことになったのだが、結局消える。
関東。
滝川一益、厩橋城。
史実では一益が関東にやってきた直後に本能寺の変が起こり、一益の関東支配は軌道に乗らぬうちに終わってしまったのだが、本能寺の変が起こらなかったら上野国を中心に力を蓄えていたことだろう。
ここではそれが再現されるわけなのだが、一益は内藤昌月や和田信業などの旧武田家の家臣も含めて多くの者を臣としていたのだが、その中には武名がよく知られた本多正重や北条高広も含まれている。
勝家や秀吉に負けない武装集団が出来上がる。
また、秀吉の小田原征伐に際し、水攻めにも屈しなかった忍城の主成田氏長や本庄城の本庄近朝などの北武蔵の国衆だけではなく、北条一族の鉢形城の北条氏邦も一益の傘下となっている。
これも史実に従っている。
中国。
事実上織田家に降伏した毛利家には信長の五男信房が入ることが決まっている。
輝元の養子という形ではあるが、信房が輝元の代わりに当主になったところで織田家による毛利家乗っ取りが完了し、信房は安芸、周防、長門の三か国の太守となる。
羽柴秀吉、播磨、因幡、伯耆の半国、備中、備後、出雲、石見、淡路。
羽柴長秀、但馬。
宇喜多秀家、備前と美作。
南条元続、伯耆半国。
黒田孝高、姫路近郊に一万石。
四国。
織田信孝、讃岐一国と伊予二郡。
三好康長、阿波一国と土佐東部三郡。
長曾我部元親、土佐四郡。
西園寺公広、伊予一郡。
蜂谷頼隆、伊予八郡。
小早川隆景、伊予一郡。
河野通直、伊予一郡。
紀伊。
高野山の与えられた一万石、高野山攻めに功があった雑賀衆、根来衆、本願寺、本領安堵した堀内氏善の領地を除く紀伊の大部分を織田信張が領する。
信張は紀伊の国人湯浅氏の居城亀山城を再建し、自らの本拠地とする。
史実では和歌山城が紀伊の拠点となり、発展していくわけなのだが、この周辺は本願寺、雑賀衆、根来衆の地盤であり、史実では消える雑賀衆、根来衆という二勢力が生き残っているこの物語ではここに城をつくるわけにはいかないため、和歌山よりも南にある日高がこの世界における紀伊の拠点となる。
なお、亀山城の旧主湯浅直春は史実通り城を焼き、熊野へ逃亡するため、信張は跡地に新城を立て直すことになる。
石高十七万石。
この時代の紀伊国の石高およそ二十四万石だから、ほぼ紀伊一国と思っていいだろう。
また、信張の紀伊移動に伴い、支配者がいなくなった和泉国だが、信長は津田信澄に信張の後釜を任せ、信澄は領地である南河内に加え、和泉、さらに南摂津も事実上支配下に置く太守となる。




