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本能寺の変が起きなかった先にある未来  作者: 田丸 彬禰


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激動の天正十年が終わる

天正十年。

史実では武田が滅び、その直後本能寺の変が起こり、信長だけではなく後継者である信忠まで失った織田家は一気に没落し、秀吉が天下に手をかけるわけなのだが、ここでは毛利、長曾我部が信長に下り、続いて上杉が滅び、高野山も降伏して畿内は完全統一される。

さらに上杉を滅ぼした柴田勝家は北上し、奥州制圧の準備を始める。

一方、勝家の援軍として越後に出向いた滝川一益は、その後信長の意向を汲み関東の雄北条との戦いのために多数派工作を始める。


そして、九州。


秀吉、大友義鎮を経由し島津へ届けられた信長から書状には匿っている足利義昭及び荒木村重の首を差し出す要求が記されている。

むろん島津にとって飲めるものではない。

当然拒絶。

それとともに臨戦態勢に入る。

だが、島津は九州の西側で龍造寺氏と覇権争いの真っただ中。

史実では龍造寺氏を制圧後に秀吉との戦いになるわけなのだから、島津にとって二正面作戦を強いられるという史実より状況は悪いといえる。

だが、その龍造寺氏も信長の臣従要求を蹴り飛ばしている。

つまり、現在肥後の覇権を争い対立している両者だが、対信長という点では手を結ぶ事は可能ともいえる。

休戦、さらに同盟だって可能。

ただし、これは表面上だけのものであり、自身が有利になったときはもちろん、相手が役に立たないと思えば、即座に攻め込む算段はつけている。

相手はその程度のもの。

だが、どのような者であっても背に腹は代えられない。

なにしろ、このまま戦いながら、織田軍の侵攻を待つわけにはいかないのだから。

こうして、史実でも天正十一年に実現した島津、龍造寺のかりそめの同盟がここで成立する。

もちろん史実ではその対象は織田ではなく大友であったのだが。

そして、ここは史実に沿って秋月種実の仲介ということにしよう。


そして、史実では実現しなかった天皇の安土行幸と、信長が征夷大将軍の拝命と織田幕府の誕生が翌年のカレンダーに記されたところでこの年は終わる。


では、もし、本能寺の変が起こらなかったら史実はどのようなに動いていたのか?


むろん根拠などなく、単なる妄想の類となるのだが、とりあえず私的意見として見解を披露しておこう。


おそらく現実は物語より厳しいものとなることだろう。

天正十年が終了したとき、上杉は滅んでいたであろうが、毛利はまだ抵抗を続けていたかもしれない。

むろん、兵力が不足していたまま始めた四国侵攻もそれほど進んでいなかったのではないだろうか。

当然余力がないので高野山もそのまま。

ただし、ここについては雑賀衆の有力者鈴木孫一の寝返りがあったので状況はよくなっているかもしれないが。


結局、西方の戦況の大半は対毛利戦に関わる。

多くの領地を手放し和睦を求めた毛利を信長はその条件で講和したのか、それとも、ここで滅ぼす気でいたのか?


むろん、ここでは織田と毛利が講和し、いや、毛利が臣従したという話にしたわけなのだが、多くの研究者が支持する案である、毛利を滅ぼすために光秀を送り、自身も前線に行くとしたらどうなっただろうか?


小早川隆景、吉川元春だけではなく、毛利輝元まで前線に来ていると知って、毛利を一戦だけで滅ぼす千載一遇のチャンスと見た信長は光秀を中国に送った。

むろん、高松城を救援にやってきながら城を包囲している状態の秀吉を攻めないということは、その状況で秀吉と毛利の戦力が拮抗していたのだろうから、援軍として光秀が率いる直属と与力合わせて二万が秀吉軍に加わった織田軍は毛利を攻めることは可能であろう。

そして、そうなれば、高松城付近で毛利両川と光秀と秀吉連合軍が激突ということになる。

ただし、数は多いとはいえ、長篠の戦いとは逆、十分な備えをしている毛利方へ攻め入るという図式となる。

しかも、毛利軍を率いるのは吉川元春と小早川隆景。

織田方も相当な被害を覚悟する必要があるだろう。

織田方に痛撃を与えるものの、結局数で押し切られ、負ければ後がない毛利は後退を開始、その後籠城と進むのではないだろうか。

むろんそこは吉田郡山城。

確かに不落であったわけなのだが、それは攻められたことがないという重要なファクターがある有名な春日山城と違い、ここは毛利元就が尼子詮久率いる三万の大軍を数千の兵で防いだ本当の意味での難攻不落ともいえる山城。

包囲したものの、攻めあぐねる織田軍もかなり苦労することになるだろう。

だが、毛利が尼子を退けたときには西から大内氏が救援にやってきているのだが、今回はそれがない。

さらに織田には城を包囲しながら他を攻める余力がある。

籠城している間に領地をすべて蹂躙され、結局降伏するしかなくなる。

当然主だった者の切腹は免れないので、ここで毛利家は終了ということになる。

ただし、それは天正十年中に成ったかは微妙。


そして、籠城の時点では備後に滞在していた足利義昭は逃亡。

荒木村重も、毛利領への逃亡後、毛利とともに織田と戦ったという記録がないことから、そうなれば義昭とともに逃亡したことだろう。

その先は九州。

大友は織田方、龍造寺氏は義昭風に考えれば出自的に疑問、そうなるとこの物語同様、行き先は名門島津しかない。

当然それは信長の九州攻めの理由となる。


天皇の安土行幸と三職推任問題は進んでいたと思われる。

少なくても前者については、天正十年中は難しくても翌年には実現したのではないだろうか。

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