信長の大阪城
大阪城。
史実では秀吉が天正十一年から築城を開始し、大阪夏の陣で落城したあとに二代将軍徳川秀忠によって再び築城され、現在はその形で復元されている。
そして、言うまでもないことなのだが史実では信長がその地に築城した事実はない。
ただし、天正十年には石山本願寺の跡地には櫓などそれなりの備えがつくられていたようである。
そして、将来的にこの重要拠点に城をつくる計画はあったのは間違いないだろう。
むろん本能寺の変によって頓挫したのだが。
大阪城築城をはじめとした信長の計画のすべてを無に帰した本能寺の変が起こらないこの物語では当然織田信長の大阪城がつくられることになるのだが、ここで関連項目のいくつかについて整理しておこう。
もちろん、これは肯定と同量の否定が存在する、根拠のない妄想の類であるのであしからず。
まず、仮に信長が大阪に城をつくったとして、ここを自身の居城としたかどうかということを考えなければならない。
それによってその機能や規模が大きく変わるのだから。
史実にある大阪城、そして、現在の大阪の発展を知る現代人であれば、信長が大阪にできる新城を新しい拠点としたと考えることだろう。
だが、それが絶対とは言えない根拠もある。
一番は安土城の存在だ。
完成から数年しか経っていない信長渾身の力作である安土城を簡単に捨てるのか?
むろん、捨てるというのは語弊があり、当然信忠に渡すのであるのだが、そうなると岐阜城をどうするかという問題もある。
岐阜城がある美濃と隣接する尾張は織田家の基盤がある重要拠点。
ここを統治するには安土は西にありすぎる。
将来正式に当主になり信忠が安土に移った場合、近江と美濃を直轄領、次期当主三法師、史実での秀信に尾張を任せるという形に変わるかもしれないが天正十年時点で、岐阜を他の誰かに任せるのは難しい。
つまり、信忠が岐阜を離れるわけにはいかない。
そうようなことを考えると、信長の本拠地は安土で動かない。
では、大阪につくる新城の主は誰にするのか?
むろん、この地の重要性を信長も認識している。
有能で信頼できる者。
かつ身内。
そうなると、候補になるのは津田信澄。
次男信雄という選択肢もあるのだが、伊賀攻めにおける前科、そして、史実の残る数々の出来事から信長の弟信包とともに伊勢と伊賀を治めるのがせいぜい。
血の濃さを重視しているように見える信長の判断基準とは異なるかもしれないがここでは信澄より上とはならない。
だが、信長の甥とではあるが、信澄は自身が殺した弟信行の子。
殺した弟の子供にそのような重要拠点を任せるなどありえないと思えるのだが、信澄に対する信長の厚遇ぶりを考えれば問題はないだろう。
これによって、安土の信長、美濃と尾張の領主長男信忠、伊勢と伊賀の大部分を領地とする次男信雄、阿波と讃岐を領する三男信孝、現在は秀吉領だが将来的には四男で秀吉の養子である羽柴秀勝の領地となる播磨、そして、大阪の信澄と、日本の中心地を織田家で抑えることができる。
これは江戸時代の関東に譜代藩を配したのと同じ構図。
おそらく史実でも信長はこのような形を目指していたのではないだろうか。
そして、その先には日本の中心となる安土には織田家当主、岐阜には次期当主の形が定着する。
では、信長は幕府を開くことを想定していたのか?
これはいわゆる「三職推任問題」と称されるものに含まれる。
研究家の中では否定的な意見が多いようであるが、この物語では安土において織田幕府を開くことを想定していたということにして話を進める。
一応、形だけのものではあるのだが、実際に幕府を開いた家康はもちろん、秀吉も当初幕府を開くことを画策していたとされていることを根拠として挙げておこう。
現代人の感覚や価値観とは違う当時の者、いや武士にとって幕府をつくるということはやはり大きな偉業と考えられていたのだろう。
そして、この時期のイベントとして、「天皇の安土行幸」というものがある。
史実でも、すでに準備が進められ、まもなくおこなわれるはずだったのだが、実現しなかった。
むろん、ここではおこなわれる。
予定では翌天正十一年四月。
そして、そのときに信長は征夷大将軍に任じられ「織田幕府」が正式に開かれることになっている。
最後に、史実では信澄は本能寺の変直後、大阪で死亡することになるのだが、この物語ではその大阪にできる新城の主にその信澄がなる。
これは信澄への手向けでもなく、まして、歴史への皮肉などではないことをつけ加えておく。
そして、この物語では天正十年の末から本格的な築城が再建された大阪城であるが、基本的に石山本願寺の遺構をなぞるものとなり、さらに相応の規模と天守を持つものの、当然安土城より大きく、絢爛豪華ということにはならない。




