信忠、難攻不落の春日山城に挑む
長曾我部元親の降伏によって終了となる信長による四国平定戦。
その後おこなわれた信長による四国国分とそれにともなく領地の再配分も終了し四国から大阪へ戻った頃、信長の長男信忠率いる織田、徳川の連合軍が柴田勝家率いる春日山城の包囲軍に合流していた。
信忠に対する信長の指示は、「上杉の降伏は認めない。必ず滅ぼす。だが、それとともに相手は落ち目とはいえ上杉。しかも、その兵が籠るのは難攻不落と謳われる春日山城。一気に落とそうなどと考えるな。陣城をつくり脱走と食料の搬入を阻止することに尽力したうえで自分の到着を待て」というものだった。
だが、到着した信忠が織田軍の陣城のひとつとしていた旧鮫が尾城で開いた評定で勝家が提案したのは即刻の攻撃開始。
しかも、それは数にモノを言わせた力攻めによるもの。
むろん勝家も「春日山城攻略は自分の命でおこなう」という信長の意向は知っている。
だが、好き勝手に強硬策を唱える配下たちの前で消極的な意見を口にすれば弱腰と受け取られ今後に影響する。
蹴り飛ばされるのを承知で形だけも強硬策を述べなければならない。
その提案は勝家のそのような苦しい事情を示したものといえるだろう。
当然のように同じく信長の意向を知っている信忠は顔を顰めたのだが、対照的に勝家の提案を好意的に捉えたのは信長の要請により信忠軍に加わっていた徳川家康だった。
「難攻不落と謳われる春日山城。だが、自分が見るかぎり、この城は言われるほど難攻不落というわけではない。これまで落としてきた城の中にはこれ以上の守りの堅い城はあった」
そう言った家康はその例として自身が落とした高天神城の名を挙げた。
いわば手伝いでやってきた徳川殿だけに威勢のいい言葉を吐かせておくわけにはいかない。
信長到着前に動くことには消極的だった勝家も、その心の声とともに「自身が攻略に関わった小谷城や七尾城は春日山城より攻めにくい城だった。それにこれだけの数がいれば必ず落とせる」と言い始める。
そこに、上杉から織田へ鞍替えした本庄繁長、色部長真などの諸将はふたりに負け時と、「自分たちが道案内をするから心配はいらない。もし、失敗した場合、自分も人質として出している家族もすべて斬首しても構わない」とまで言い切る。
さらにそこに繁長たちも信長側についていた新発田重家が加わり、「籠城している兵も一万程度。この広大な城域を守るにはあまりにも少ない。力攻めでも十分に落とせる」と断言した。
これだけ言われてしまっては信忠としても決断せねばならない。
すぐにでも力攻めを始めることを。
そして、再びの評定。
まず、ほんの少し前までこの城に出入りしていた本庄繁長と色部長真によって春日山城の攻略手順が説明される。
細かな抜け道は多数あるものの、大軍で攻めるのであれば本丸までの経路は三つ。
まず、南三の丸、続いて南二の丸を落とし、天守を目指す南からのもの。
続いて、距離だけを考えれば最短距離となる、多くの分岐をおこないながら、中城、千貫門を抜き、さらに直江屋敷を経由する中央から攻め上がるもの。
最後に蓮池を超え直江屋敷を経由する北側の経路。
そうして、信忠が決定した陣割はこうなる。
本丸への主路とされる南からは上杉攻めを担ってきた北陸方面軍の佐々成政、前田利家、佐久間盛政、金森長近ら一万五千。
中央から攻め上がるのは川尻秀隆を大将に、毛利長秀、森長可、木曽義正、真田昌幸、小笠原信嶺らの信濃勢。
そこに半年前の武田攻めの際に長可とともに度々命令違反を犯し悪名を轟かせた団忠正と信忠より名を貰い忠政と改名したばかりの史実での坂井越中守、斎藤利治が加わり、合計二万二千。
北側からは徳川家康、武田家を継ぐ穴山信君の一万。
そして、各隊の各隊の案内役として旧上杉家家臣が加わるのだが、南からの攻める軍には新発田重家と五十公野信宗、中央は本庄繁長、北側の隊には色部長真がそれぞれ千人ほど直属の兵を率いて参加する。
信忠本隊、滝川一益、柴田勝家本隊が城の周囲を取り囲み包囲網を形成する。




