四国国分
実を言えば、この四国国分という言葉は史実にある秀吉の四国平定後におこなわれた大名配置を示す。
だが、ここではむろん信長による領地配分となる。
阿波国。
むろん三好康長に一国が与えられる。
さらに康長には土佐の東側三郡も加増される。
この領地は最終的には康長の養子となっている信長の三男信孝が引き継ぐ。
また、河内国内の領地は収公される。
讃岐国。
信長の三男信孝による一国支配。
その中に讃岐の土豪たちが組み込まれていく。
さらに讃岐に接する東伊予二郡も領す。
土佐国。
長曾我部元親は土佐西四郡を領する。
ただし、石高としては土佐の七割といったところになる。
伊予。
西園寺公広に伊予郡。
信孝領に接する東八郡を蜂谷頼隆が領する。
当然頼隆は信孝の補佐役となる。
ただし、頼隆の領内にある得居通幸領は安堵する。
西園寺領に接する一郡を小早川隆景、湯築城と周辺の一郡を河野通直が領す。
さらにそれに関連した四国以外の領地も追加の変更がおこなわれる。
河内国。
旧三好領の南河内の三郡四万六千石を津田信澄、五郡六万九千石を丹羽長秀。
摂津。
旧領と合わせ西摂津四郡半、十万四千石を池田恒興。
北摂津の一郡半四万二千石を四国攻めの功労者である光秀に与える。
そして、本願寺跡を含む南摂津四郡十一万三千石を蔵入地とし新城建設普請役を長秀に任せる。
そこに中川清秀の一郡五万石、高山右近の一郡三万一万石。




