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「脳天ぶち破られるほどの恋ってさ、一生に一度もできるもんじゃないよね」
空を仰いでえなは言う。どこまでも広い空だ、雲ひとつない。
線路端にたんぽぽが咲いている。それを不意にむしり取り、自分の鼻に当ててその匂いを嗅ぎながらえなは、
「水槽の中に閉じ込めたかった」
と言った。
「あいつを殺してさ、ばらばらにして。なのにあいつ、」
そこで言葉を切り、篤史を見上げてくる。そのきつい瞳で。
「あんたのせいよ。あんたが妙なことをしでかさなければ、あいつはあんたの兄貴を殺すことはなかったはずよ」
そこまで言った後えなは黙り、今度はたんぽぽを地面に投げ捨て、
「いいや、違う」
と自分の言葉を否定した。
「あいつはあんたを庇おうとしたわけじゃない。あんたの為にやったわけでもない。単純にあんたの兄貴を憎んでたのよ。そう、恨みがあった。だから殺ったのよ。そうよ、あいつは計画してた。いつか殺そうと計画してた。だからバイクの免許を取ったのよ、あたしとの約束を果たす為に。最後にあたしとの思い出を作る為に。あたしの為に、あいつはあたしの」
えなの擦り切れたサンダルの下でたんぽぽが踏みつぶされてゆく、ぐりぐりと。何の罪もないたんぽぽである。こうなる運命だったのか。
「土下座して詫びろよ」
篤史をぐいと見上げてえなは言う。その目を血走らせ、濡らして。唇を歪ませて。
「死んだ兄貴の代わりに謝れ。連帯責任だ、謝れ。あたしからあいつを取り上げたこと、土下座して謝れよ」
えなが崢と出会ったのは小学校の頃だ、篤史の知らぬ間に二人は出会い、時を共にした。その間、二人の間に起きた出来事を篤史は当然知る由もない。
えなの記憶の中には、えなにしか知りえない崢がいる。
「返せよ、あいつを」
えなは叫ぶ。頬に流れる涙を拭うこともせず、篤史の目をじっと見据えて。
ぱしりとボールを受ける音が響いてくる。見やると高校生くらいの二人の少年がキャッチボールをしていた。笑い声も響いた。
重なる。二人の少年に、崢と自分が、重なるのである。
ああ、崢はいつ帰ってくるのだろう。
崢は篤史を日常に帰した。篤史は兄から暴行を受けていた、そんな崢の証言が、篤史による兄の頭へのバットでの殴打を正当防衛として処理する材料となったし、篤史の釈放を後押しする結果となった。
崢により日常がもたらされたのだ。今や灰となった兄は二度と篤史に触れることもない。苦悩の日々は消え去ったのだ、いいや、消え去りつつある、が適当な表現であろう。灰となりながらもいまだ兄はその生々しい感触をもって絡みついてきては篤史を汗だくにするのだ、夜中に幾度も飛び起きて、そして篤史は確認する。ああ、兄は灰となった。
あとはもう、手を合わせるのみである。兄ちゃん、どうか穏やかにいてください。神様に怪我を治してもらって、まともな兄ちゃんに直してもらって、そうしてまた会う日には、僕を優しく迎えてください。あの頃のように、そう、歪みのなかった、ただただ、慈しみに溢れた、自慢の、兄として。
人はね、死んでしまうと神様が悪いところを全部持って行ってしまうんだよ。父が亡くなった時であったか、兄は篤史にそう言った。まさしくその通りであった。灰となった兄はおびただしい数の優しい思い出を残した。そしてそれは毎夜のようにこみ上げるのだ――いい子、いい子、おまえはいい子だ、兄ちゃんの自慢の弟だ。おまえは将来、何になりたい? そうかそうか、野球選手か。それなら兄ちゃんと一緒に夢を見よう。一緒に甲子園に行くんだ。
兄の優しい声音であったり手のひらのぬくもりであったり色々だが、それらはきっと消えゆくことがない。兄の身体のように簡単に灰にはならないのだ。永遠に篤史の身に巻きつき、漂う。しかしながら兄はもう篤史の生身の身体に苦痛を与えることはない、それは確かなことだった。
人々の関心は次の事件へと向かった。それにより篤史のもとにはゆったりと日常が戻ってきた。しかしながら崢から日常は消え去ったままだ。
崢には何の罪もない。取り調べの際、篤史は再三訴えた。兄による崢への過ちがなければこんなことにはならなかったと、事細かに経緯を口にした。しかしどんな判決が下るのか、崢がいつ帰ってこられるのか、先が全く見えないのである。手紙も物品の差し入れも崢のもとへは届かないし面会も許されない。接触できないのだ、ああ、もう触れられない。
線路の近くでキャッチボールをする少年達。その楽しそうな笑い声。
ああ、もっと崢とキャッチボールがしたかった。
サイレンを鳴らしながら電車が来る。
「ねえ、」
頬を薄く笑わせながらえなが言った。
「一緒に死ぬ?」
風に吹かれてばさばさに乱れる髪の中から濡れた目が見える。それはじっと動かず、篤史を試している。