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憩いの広場に置かれた水槽の中で、赤と白のまだらの、顔の丸い金魚がそのつぶらな目を篤史のほうにじっと向け、口紅のような赤い模様のついた口をぱくぱくさせながら懸命に胸鰭を振り、自慢の尻尾をくねらせながら踊っている。餌をくれと言っている。心の中で篤史は名前を付けた。リップちゃん、と。以前篤史が自分の部屋で飼っていた金魚の名前である。この金魚にそっくりだった。
金魚を飼うのは難しい。どの金魚もすぐに死んでしまった。金魚に詳しいえなに死因を訊ねると彼女は、あんたね、塩浴だの薬浴だの手をかけ過ぎなんだよと猛烈に怒った。えなが世話をする金魚達は皆元気いっぱいに泳ぎ続けている。
憩いの広場の水槽の中で優雅に踊るこの子を自宅に連れて帰りたい。けれど自分の手に入った子は皆、死んでしまう。だからこうしてここで眺めているのが一番良いのだ。
「ねえねえ、えなちゃん、篤史くんってやっぱりえなちゃんの新しい彼氏なんじゃないの? 今日も来てるよー」
子供達がえなにまとわりついている。水槽の中に手を突っ込んでガラス面についたコケをスポンジで擦るえなの服や髪を引っ張ったり背中に乗ろうとしたり、いろいろだ。
「おまえら、うるさい」
えなが子供達に目をむく。
「とっとと部屋に引っ込んで宿題やってこい。こら、ヒロ、水槽叩くなっつってんだろうが。おら、レン、まーたおまえは鼻水垂らしてんのか」
えながそのへんにあったティッシュを男児の鼻に押し当てる。それが済むと今度は女児に目を向け、ユイあんた靴紐ほどけてんじゃん、この前ちょうちょ結び教えただろと言いつつかがみ込んで女児の靴紐を結び始めた。その間にも子供達はえなに構ってもらおうとまとわりつく。
常に無表情でぶっきらぼうだがえなは面倒見が良いのだ。この児童養護施設に遊びに来るようになって初めて気づいたことだった。
「ねえ、えなちゃん、篤史くんじゃなくて崢くんに会いたい。篤史くんは何にも喋らないからつまらない。崢くんは優しくて面白くて大好きだもん。ねえ、えなちゃん、崢くん呼んできてー」
「崢くんは忙しいからね」
子供達の不平にそう答えつつえなはまたも水槽の掃除を始めようとするが今度は男児に目を向け、ユウキおまえ、かさぶた剥すなって何べんも言っとろうが、ほーら血が出た! ポケットから絆創膏を取り出し男児の指に貼りつける。
えなのこういうところが良かったんだろうか。えなを眺めながら不意に篤史はそう思った。
「あんたのせいで大量の魚の世話を全部あたしが一人でやるはめになったんだからね」
自習時間となって子供達が部屋に引っ込んだ後、憩いの広場はとても静かになった。ずらりと並んだいくつもの水槽を篤史は黙って眺めていた。あの部屋にあった水槽と魚と水草達だ。施設長の許可を得てえなが運び込んだ。
それにしてもえなは力持ちだ。崢の部屋に大量に置かれていた水槽や魚達をすべて、ほぼ一人でここまで運び込んだと言う。さすがに施設長が車は出してくれたようだが、犯罪を犯した人間の飼育していた生き物をどうしても施設に入れたいと言うのはきみだ、きみがすべて一人でやりなさいと施設長は言って、もちろんですとえなは答え実行したのだとか。一旦ビニール袋に水槽水と魚を入れる作業や水槽から水を抜く作業もあり、さらには階段の昇り降りもあった為さぞかし骨の折れたことであろうが、えなは一人で何度も往復し、さらに死魚は数匹しか出さなかったとのことである。
崢が愛でた魚達は今や施設の憩いの広場の住人だ。あんなに賑やかだった崢の部屋はもう、もぬけの殻である。借主であったらしい母親が崢の逮捕後に退去を決めたわけだ、水槽をなんとかしてくれとえなに言って。次の借主を迎えるため業者がリフォームに入っていると聞いた。
拘束されていた身を解放されたのち篤史は施設を訪ね、魚を何匹かくれとえなに頼んだのだが断られた。それでも篤史は懇願し、気に入った数匹の金魚を引き取って自分の部屋で飼い始めたが、どの金魚もすぐに死んだ。
あんたが殺したんだとえなは言った。その通りだと篤史は思った。あんたにやらなければ良かったとえなは篤史の胸倉を掴んだ。篤史は抵抗しなかった。あんたなんていなければ、あんたさえいなければ。えなは篤史の頬を思いきりぶった。篤史は動かずえなにぶたれた。
「ねえ、」
水槽の掃除を終えたえなが首などを傾げて篤史を見やり、無表情のまま、
「散歩行こうよ」
と言った。