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「な」
不意に篤史の耳元に声がかかる。同時に篤史の両の手首に尋常でないほどの握力がかかり、それによって篤史の両手は兄の首から剥がされるように離れた。
兄の首から篤史の両手を引き離したのが崢であると今になって気づいた。運動をしたわけでもないのに篤史の息は上がり、額から一筋の汗が流れた。
何をしていたのか。自分は兄の首を絞めようとしていた。
「ちょっとバイク見に行ってくれねえか。ロックすんの忘れた」
実にのんびりと崢が言う。
「バイク?」
乱れる呼吸に混じって篤史は崢の言葉を反芻し、それでもなお視線は兄の目に刺し続けた。暗闇の中で兄は動かない。ただの物体であるかのごとく。
「音がした」
篤史の隣で崢は言う。
「音?」
「盗まれたかもしれない」
「空耳だろ」
「見に行ってくれ、今すぐだ」
闇の中で見ている。兄の目が、篤史の目を。確かに、じっと――
「分かった」
もはや無意識の領域だ、篤史の口は崢にそう返事をし、身体は兄のもとから後ずさるようにして離れた。そのまま兄に背を向け、崢に言われるままに外に出た。
玄関先に当たり前のようにバイクはあった。ロックがかかっているのは素人目にも分かった。大丈夫だよ、あったよ、崢にそう伝えるべく篤史は家の中に戻った。
ほんの少しの時間だったのだ、篤史が外に出ていた時間、それは十秒と少しであったか。そのほんのわずかな間に事が大きく変化したのだ、闇の中でそれははっきりと認識できた。
血の匂い、というやつか。兄の頭からわずかに流れていたものとは異質の、もっと深い、強烈な、明確な意志の働いた上での流血、つまり肌を割られたことによる――