18
兄の口元に崢が手を当てる。
「息してんな」
そう言った。
瞬間、自分の体内に大きな筒のようなものが通った錯覚が起こり、それにより大きく息がつけた。これで殺人の罪には問われない、そんな安堵か。
しかしながら兄は目を覚まさない。頭からはわずかに血が流れていた。
縁側近くに仰向けに倒れていた。自分の記憶が正しければ兄はうつ伏せに倒れたはずだ。であるから一度は意識を取り戻して身体の向きを変えたわけである。
次はいつ目を覚ますのか。覚まされたら自分はどうするのか。弾劾されるであろう、しかし兄のことだ、自分の弟を犯罪者にはせず隠し通すはずだ。教員としての自分の立場、つまり守るものがあるから、きっと。
しかし、である。一つ屋根の下、兄による篤史への罰、それが始まることになる。家族の目をかいくぐりながら、これまで行われてきたものとはきっと比べ物にならないほどの、実に激しい――
電気を消したままにしているから家の中は真っ暗で、窓の向こうからわずかに入り込む外灯の明かりだけが頼りだった。その明かりが兄の顔をうっすらと照らし出していた。蒼白、か。色まではよく分からないがともかく兄は眠っている、そうにしか見えなかった。
鍵もかけずに家を飛び出したというのに今まで誰も入ってこなかったようである。辺りにいつも通りの静けさが流れているのがその証拠だった。つまりここにいる三人以外、誰も知らないわけだ。カーテンが開けっ放しになってはいるが窓の外には鬱蒼とした垣根があり、中の様子など遠目にも分からないのだ、敷地内への不法侵入者でも出ない限りこのさまは誰の目にも映らないわけである。
どこかで犬が吠えていた。いつも通りの、日常だ。どこの家庭も夕食を終えた頃合いか。風呂に入ったりテレビを眺めたり宿題を始めたり、皆がいつも通りに動いている。
ここだけが、違う。日常とかけ離れているのだ。
兄は眠り続ける。違う、意識を失っている。いつ意識を取り戻すか分からない。いいや、取り戻すかどうかも分からない。
突如として思う。このまま意識を取り戻さなかったら、つまりこのまま死んだら。不意に頭に浮かんだ考えに膝が震え始めた。すきま風でも吹いているのか、妙に寒い。
「救急車を」
声も震えた。
「呼んでどうする?」
被さるように崢の声が来る。
「助かるかも」
「どうかな」
「呼ばないと」
「それで、おまえは?」
暗がりの中、崢の目が篤史の目を見ていた。何の感情も窺えなかった。