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篤史の指は素早く番号を押したのに肝心の崢はいっこうに電話口に現れない。篤史は受話器を置いた。ガシャリという音がやけに大きく電話ボックスの中に響いた。電話機に両腕を置きその上に顎を乗せて篤史はふうと息をつく。
自分は何をしているのだろう。自分から勝手に家を出ておきながら、今さらおめおめと崢に電話して、そして何を言うつもりなのだろうか。迎えに来てくれなどと頼むのか。なんとも情けない話だ、自分で自分を嘲笑う。だがうまく笑えない。
ガラス張りの電話ボックスの中に夕焼け色が充満し、なぜだか妙に息苦しい。それでも篤史の身体は電話機にだらりともたれかかったまま動こうとしなかった。
カラスの声が遠くに聞こえ、篤史は目だけ動かして空を見る。金属の溶けだしたような色に染め上げられた空をカラスの群れがゆったりと渡っていって、カラスにも家族があるんだな、そんなことを篤史はぼんやりと思った。
夕日に照らされ、汚れや指紋の際立つガラスに自分が映っていた。これは誰だ、とさえ思った。そうして気づいた。ああ自分だと。
なぜ自分は今ここでこうしているのだろう? このあと一体どうするつもりなのか。この電話機が鳴るのを待ってでもいるわけか。崢からの折り返し、そんなものがよこされると思っているのか。
緑色の公衆電話の上で両手の指を絡ませ合う。きつく、きつく。
篤史はまたも受話器を手に取った。崢の電話番号を押す。呼び出し音が鳴り、それが不意にとぎれた。
「はい」
心臓が跳ねた。崢が電話に出たのである。