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綿菓子

 信号機には『押しボタン式』と確かに書かれているのに、誰一人として横断歩道を渡っていない。

 

「ど、どうして?」


 わけがわからなくなり、頭上でひよこがピヨピヨ回っている。


「時間だよ」


 言いながら青年は腕時計を見せてきた。


「学校に腕時計してっていいの?」


 時間より先にまずそれが気になった。


「僕の学校は大丈夫だよ」


 明日、保健室の先生に聞いてみよ。


「それよりも時間を見てよ」


 あたしは視線を二本の針に集中させる。


「……三時……おやつの時間?」


 青年は重力に従うように腕を下ろす。


「まぁ、それもそうだけどさ、小学生の下校時間なんだよ」


 頭上で回っていたひよこたちが、にわとりへと成長した。


「わかってなさそうだね」


 下校時間と信号の色に何の関係があるというのだろうか。


「押しボタン式だとさ、押さないと変わらないじゃん?この時間に一斉に下校が始まると、車側の信号がほとんど赤になっちゃうのよ。だから、この時間帯は押しボタン式じゃなくなるのね、わかる?」


 青年は幼い子に説明するような視線をあたしに向けている。


「でも、あたしが問題を出した時は三時じゃなかったよね?」


 尋ねると、青年はかけてもないメガネをクイっと上げる仕草をとった。


「僕の演技にお気づきではない?」


 あたしの口が無意識のうちに広がっていく。


「……その顔、本当に気づいてないんだな」


 青年はやれやれといった様子で腕を広げている。あたしには何に対してやれやれしているのかわかっていない。


「焦ってるフリをしたのは時間稼ぎのためだってことだよ」


 焦っていた青年の姿を思い出す。


「演技にしては上手すぎない?」

「上手く演技したっていう捉え方はしてくれないのね」


 青年はトホホと、肩を落とす。


「まぁいいや、これで僕が"ハストちゃん"だって認めてくれるよね?」


 あたしは首を横に振る。


「どうしてよっ!!!」


 青年は顔を片手で覆い、体を反らして唸っている。


「その"ハストちゃん"も演技なんじゃ……」


 あたしは指パッチンをしながら名探偵の推理のように言ってみせた。ちなみに指から音は出なかった。


「もう!!さすがにしつこい!信じてよ!!!」


 その声に反応するかのように、幼かった頃のハストちゃんの声が脳内で再生される。


『だから!アリスちゃんだけは!私の名前!忘れないで!』


 脳内で点と点が繋がる音がした。


「……ハストちゃん……?」


 全神経が目の前にいる青年をハストちゃんだと認め始める。


「だから最初からそう言って──」

「ハストちゃんっ!!!」


 あたしはハストちゃんを抱き締める。全身でハストちゃんを感じるために。


「ハストちゃんハストちゃんハストちゃんハストちゃん!!!!」


 会いたかった。

 帰ってくると思ってた。

 絶対にそんなことないのに、それだけを頼りにずっと生きてきた。

 帰ってこないと思う自分が嫌になって、自暴自棄になってた。自分を捨てたいと思ってた。

 でも、今あたしはハストちゃんを抱き締めている。

 あの時は言葉しか交わすことができなかったけど、今は体温を交えることができている。

 温かい。周囲は冷たい空気が蔓延っているのに、あたしだけは真夏日を観測してしまうほどに温かい。

 これは、異常気象だ。


「ハストちゃん、会いたかったよ」


 あたしはゆっくり、ハストちゃんから離れる。


「ハストちゃん?」


 ハストちゃんは頬を赤く染めていた。ハストちゃんもまた、異常気象を観測したのかもしれない。嬉しい。


「僕、男の子なんだけど」


 そうだった。


「ちゃん呼びやめた方がいい?」


 「そうじゃなくて」と、口元を手の甲で押さえながら否定してきた。


「今はいいや、早く荷物を運ぼう。おばあさんが困った顔で固まっちゃってるから」


 あ、忘れてた。


「ごめんね、おばあさん。すぐ運ぶから」


 おばあさんの肩を優しく叩いてから、体の向きを信号の方へ向ける。


「赤だよ?止まんなよ」


 右左右おまけに左を見て、車が絶対に来ないことを確認してから渡ろうとしたのだが、ハストちゃ……ハストに止められてしまった。


「車来ないよ?」


 安全だとわかれば、信号は赤だって渡ってもいいと思っている。


「アリス一人ならね。今はおばあさんもいるんだ。他の人がアリスのペースで歩けると思っちゃいけないよ」


 確かに、一理ある。

 何も考えずに歩いていた時も、振り返ればおばあさんとの距離はどんどん開いていたのを思い出した。


「ごめん」


 悪い意味で頭を下げる。


「わかればいいんだよ」


 ハストは優しく答えてくれた。


「青になったよ!」


 確かに青になったのを確認してから勢いよく一歩を踏み出そうとしたのだが、再びハストに止められてしまった。


「今度は何!?赤でも青でも止められるのなら、いつ渡ればいいっていうの!?」


 イガイガの言葉で尋ねる。


「急ぎの用じゃないんだし、念のため左右を確認するべきだよ」


 さすがのあたしも、これには賛同できない。


「ハストは急いでないかもしれないけど、あたしには時間が限られてるんだもん!これから行く当てもないし、今後のことも考えないといけないし」


 おばあさんの優しい視線に気づき、あたしは口を閉ざす。


「両親は僕が幼い頃、車に轢かれて死んだと、話を聞いたことがある。飲酒運転だったみたい。顔も声も良く覚えてないけど、抱き締められた温もりだけは忘れないように毎日思い出してる。僕はアリスにそんな目に遭って欲しくないんだよ。まぁ、アリスが僕の言うことに従う義理なんてないけどさ」


 あたしは両親の顔も声も、抱き締められた温もりでさえ知らない。

 ハストが、羨ましい。


「……わかった。ハストが先歩いてよ、あたしついてくから」


 ハストが嫌がる行動を取るつもりはない。先を歩いて指図されるのなら、後ろを歩いていた方がマシだ。


「アリスはずっと元気でいてね」


 結局、あたしたちが渡り切った後も、車は一台も通ることはなかった。

 ハストはきっと心配性なんだと思う。あたしはもう立派に中学生……立派ではないかもしれないけど。

 それでもハストと同じ月日を過ごしてきた。もう少しはあたしのことを信用してもいいと思う。


「二人とも、ありがとねぇ」


 荷物を届け、おばあさんの家を去ろうとした時、あたしの鼻は微かな甘い香りをキャッチした。


「綿菓子!!?」


 勢いよく振り返ると、玄関にいたおばあさんが目をまん丸にして固まっていた。


「よくわかったねぇ」


 綿菓子の甘い香りは、徐々に強くなっていき、無意識におばあさんの家に上がっていた。


「……何してるの?」


 ハストがあたしの服を引っ張っていた。


「スケべ?」

「人の家に勝手に上がるって、どんな教育受けてきたのさ!」


 ハストの鼻から湯気がボンボンと出ている。


「表で息子が綿菓子を作り始めたから、荷物運んでくれたお礼に食べていきなさい」


 あたしの頭の中で甘い香りがフワフワと膨らみ出し、顎から雫がポトポトと滴っている。


「……ご迷惑おかけします」


 あたしとハストは縁側に案内された。

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