第三章 暗雲のナイトウォークラリー
第三章 暗雲のナイトウォークラリー
「さぁ、皆準備はいいかな?」
「それじゃあ、今からナイトウォークラリーするぞ〜。一チーム男女二人ずつに分かれてくれ」
橘先輩のよく通る声が静まり返った山荘のロビーに響き渡るやいなや、周囲で学生たちのざわめきと和気あいあいとしたチーム決めが始まった。
「とりあえず、俺と冴由と紫陽……あと女子一人はどうしようか?」
「なら、結花を呼んでくるよ」
冴由が静かに答える。
「結花って?」
「お前、最初の自己紹介の時ボーッとしてたから聞いてなかったんだろ。経済学部一年の松本結花さん。俺と一緒の学部の子だよ」
紫陽が呆れながら説明をする。
「へ〜。それで、冴由はその子と仲いいんだ」
「そう。最近仲良くなったんだけど、物腰も柔らかくて、いい子」
そう言いながら、結花を探しに冴由は軽やかな足取りで駆けていった。
「はじめまして、松本結花です。よろしくお願いします!」
控えめに頭を下げる彼女の姿に、紫陽は気さくに笑ってみせる。
「そんなに畏まらなくていいよ〜。俺は松本さんと同じ学部の荒井紫陽。紫陽って呼んでくれ。んで、右のが宗治。一応、冴由の彼氏」
「一応ってなんだよ。ちゃんと彼氏だし。……あっ、商業学部の淳田宗治です。冴由がお世話になってるようで」
「いえいえ、むしろ私の方が、お世話になっていると言うか……」
初対面の緊張をほぐそうと結花が小さく微笑んだその時、背後から冷ややかな声が差し挟まれた。
「自己紹介が終わったなら、早く部長のところに行きましょ」
冴由の細い指が、無言で宗治の袖をキュッと引く。その力加減には、どこか拒絶と独占欲が入り混じっていた。
「そうだな、周りのやつらもどんどん出発してるっぽいし、行くか」
「ふむ、では君たちにはこのマップを渡そう。くれぐれも迷子にならないように。もし迷子になっても、下手に動き回らないことだ。暗い中で歩き回ると、余計に道に迷うからな」
橘先輩から手渡された紙を、紫陽が軽口を叩きながら受け取る。
「「「「はい!」」」」
「よし、それじゃあ楽しい夜の探検を楽しんできなさい!」
――ロビーを離れ、木々のざわめきと闇が支配する山道へと踏み出してどのくらい経っただろうか。周囲の湿った空気が、肌をじっとりと濡らしていく。
「なぁ、紫陽」
「何だよ」
「お前、ひょっとしなくても……道、迷ってないか?」
足元の草木を踏む音が、不気味に暗がりへと反響する。
「ぎくっ……なに言ってんだよお前、俺が道に迷うわけないだろ!」
「暗くてよくわからないがさっきもここら辺歩いた気がするんだよな。しかも、さっきからリボンみたいな目印が全く見当たらない」
「……すまん、皆。俺、実は完全に道に迷っちまったみたいだ……」
強がっていた紫陽が、バツが悪そうに頭をかいたその時、頭上の葉を叩くように嫌な冷たさが頬を打った。
「雨……?」
「まじかよ、こんな山の中で雨宿りできるような場所ねえか!」
焦燥の色を濃くする紫陽の横で、冴由がスッと細い指を暗がりの先へとさした。
「あっち、少し歩いたところに古い小屋があったはず」
「おお冴由、暗いのに良く見えてたな! じゃあ、あの小屋の方へ急ぐぞ」
古びた木造の小屋の戸をこじ開け、滑り込むように中へ入り、荒い息を整えた。木と埃の匂いが鼻腔を突く。
「ふ〜、冴由の言う通り小屋があって助かったぜ。けど、どうするよ。スマホも圏外だし、帰り道も分かんなくちゃ、このままじゃ身動きが取れねえぞ」
紫陽が青ざめた顔で、圏外を示す画面を何度もタップしている。
「と、とりあえず雨がやんだら、来た道を戻るっていうのはどうですか?」
結花が不安そうに両腕を抱き締めながら提案した。
「うーん……先輩たちが探しに来てくれるのを待つのが無難だと思うけどね。橘先輩も、下手に動き回るなって言ってたし」
宗治が冷静に腕を組み、冷えた空気を吸い込みながら呟く。
「けどよ! この小屋がマップのルートから外れてたら、誰も探しに来てくれないかもしれないだろ。来た道を戻ったほうが、捜索隊と遭遇する率は上がるはずだ!」
自分のせいで迷子になったというプライドと焦りからか、紫陽は珍しく語気を強めて取り乱している。
「ん〜、そうだな。来た道を戻るくらいなら危険は少ないか。じゃあ、雨が上がったら戻ってみるか」
それから少し経ち、雨脚が弱まり始めた頃。
「あ、おい、あそこ見ろよ! 川があるぞ。あの川を下っていけば、どこかの道路に合流できるんじゃないか?」
小屋の窓から見える、どんよりと濁った水の流れ。
「確かに、それはいいアイデアかもな」
「あっ、あの……来た道を戻るんじゃ……」
結花の控えめな声を遮るように、紫陽が勢いよく立ち上がる。
「大丈夫だって! 昼間、車で通った道路にうまい具合に出られるかもしれないし、行ってみようよ。な、宗治も賛成だろ?」
「あぁ、川を下るくらいなら昔からよくやってたし大丈夫だろ」
「……宗治が行くなら、私も行く」
冴由の瞳には、周囲の不安の色は一切なく、ただじっと宗治を見つめる熱と冷たさだけが宿っていた。
「冴由ちゃんまで……。わかったよ、行けばいいんでしょ、行けば!」
「さっきの雨で足元がぐちゃぐちゃだから、気をつけて歩けよ」
「あぁ、何かあったら俺と紫陽で支えるからさ、二人とも遠慮しないで言ってくれよ」
少し歩き、苔むした大きい岩がゴロゴロと転がる、険しい川沿いの斜面に差しかかったときだった。
宗治の頭がズキリと痛み、右視界が、ガクリと激しく揺らいだ。
――ぬかるみに足を滑らせて川底へ転落し、鋭い岩に頭を強く打ちつける結花の未来の光景が、脳裏にスライドのように焼き付く。
「危ないっ!」
「えっ……きゃっ!」
思考よりも先に体が動いていた。宗治は一気に距離を詰め、バランスを崩した結花を自分のほうへ力強く引き寄せる。しかし、先程の雨で緩んでいた泥濘みに足を取られ、今度は宗治自身の体が崖の下へと持っていかれる。
(やばい、落ちる……!)
誰もいない暗い夜の空に向かって手を伸ばす。だが、その指先は虚しく空を切るだけで、誰の助けも届かない。底知れない恐怖が背筋を駆け抜けた。
――その瞬間だった。
「まったく、油断も隙もない連中だな」
ガシッと力強い男の手が、宗治の手首を鋭く、強引に掴み上げた。
「橘先輩……っ!?」
「やっと見つけたぞ。暗い森の中で勝手に動き回るなって言っただろ」
「その迷子の原因を作った先輩が何を言うんですか……って、皆も無事ですか?」
安堵の息を漏らす宗治の背後から、いつの間にか河野先輩が紫陽の横に立っている。
「優也が、あなたたちの班にだけ間違えて『3年生用の難所マップ』を渡しちゃったみたいで……本当にごめんなさいね。1年生は全員、安全な遊歩道をぐるっと一周するだけだったのよ」
「どうりで、途中から道らしきものが消えてるわけだ……」
「それをどんどん進んでいっちゃったわけね、紫陽くん?」
「うっ……それは、昔から山に入り慣れててつい油断が……なぁ宗治!」
「まぁ、俺もすぐに気づけなかったから責任はあるさ。とりあえず、全員怪我なく橘先輩たちと合流できたんだから良かったじゃねえか。な、冴由?」
「…………」
返事がない。振り返ると、冴由は濡れた髪の毛を張り付かせたまま、冷徹なまでの眼差しで結花と宗治を交互に見つめていた。その表情の裏にある感情を読み取ろうとした瞬間、橘先輩がバシッと大きな音を立てて手を叩いた。
「……まぁ、とにかく皆のところに戻ろうか。他の部員たちも心配してるからさ」
「そ、そうですね! おい宗治、早く戻って夜のレクリエーション楽しもうぜ!」
「え、あぁ……そうだな」
「冴由ちゃん、大丈夫? 何か悩み事があるなら、私でよければ聞くよ?」
結花が心配そうに声をかけると、冴由はすっと視線を逸らした。
「ううん、結花……大丈夫。ただ、ちょっと疲れただけだから」
山荘の宿に戻り、再び暖かな明かりと熱気が戻った大広間。
「――っとまあ、そんな命がけの大冒険があったわけさ! いやぁ、あそこで俺がバシッと指揮をとっていなかったら、今頃俺たちは深い森の迷宮の住人だったところだな!」
紫陽が他の新入部員たちを囲み、先ほどの遭難騒動をすっかり大げさに語って聞かせている。
(だいぶ話が盛られているというか、ほとんど嘘だな……)
疲労の色を隠せないまま、宗治は小さく苦笑した。
「おい紫陽、それお前が原因で迷ったんだろ〜が」
紫陽の背中に覆いかぶさりながら、宗治がツッコミを入れる。
「うっ、そこは言うなよ! せっかく俺がみんなのヒーローになるための筋書きなんだからさ!」
「何だよそれ。小屋の中ではあんなに焦ってたクセに」
「宗治くんって、思っていたよりも面白い人なんだね」
新入部員の女子がクスクスと笑いながら言う。
(俺が……面白い?)
普段、周囲からどこか冷めた目で見られがちな自分に向けられた、思いがけないあたたかな言葉。胸の奥が微かに温かくなるのを感じる。
「だろ? こいつ、関わってみると意外とノリがいいし、いざって時の頼りがいもあるんだよ。あの時だって――」
紫陽が何かを思い出したかのように、ガサゴソと自分のカバンの中に手を突っ込む。
「じゃじゃ〜ん! そういえば、みんなで遊ぼうと思ってこれを隠し持ってきたんだぜ!」
カバンの中から、大量のトランプや心理戦用のボードゲームが次々と取り出された。
「「「「うわーっ、すげえ!」」」」
「お前、こんなにたくさん持ってきてたのかよ」
「ふっふーん、みんなで夜更かししたかったからな! まあ、その前に山登りで死にかけたけどな!」
「「「「アハハハッ!」」」」
「そんなことより、早くやろうぜ! てか宗治、お前も何か持って来るって言ってなかったか?」
「あぁ、ちょっと色々あって準備できなかったんだけど……その代わりと言っちゃなんだけど、自前で『ロシアンルーレット』用の道具を作ってきた」
「お前……それ、めちゃくちゃ面白そうじゃねえか! さっそくやろうぜ!」
こうして、夜の深い闇と静寂を笑い声がかき消すように、波乱の新入生歓迎合宿の夜は更けていった。
数日後。穏やかな午後の光が差し込むキャンパスの木陰。
ムスッとした不機嫌な表情で腕を組む冴由の隣で、宗治は困惑の色を隠せないまま、頭をかいていた。周囲の学生たちの足音が、やけに遠く聞こえる。
「冴由、今日はどうしたんだよ。久しぶりのデートだってのに、なんだかずっとご機嫌斜めじゃないか」
「この前の合宿の時……」
「……ん? 合宿で何かあったっけ?」
「約束、忘れてないよね」
「覚えてるよ。えっと確か、『冒険部の活動よりも冴由を優先すること』だろ?」
「それも大事。だけど、もう一つは――『危ないことはしないこと』。宗治、あのとき結花を助けようとして、自分が崖から落ちそうになってた」
「あぁ、でもあれは結果的に橘先輩が助けてくれたし、誰も怪我しなかっただろ?」
「そういう問題じゃない。最近の宗治、見ていて危なっかしすぎる」
「けどよ、あんなの偶然……」
「偶然なんかじゃない!」
乾いた声が木陰の空気を切り裂く。ビクリと宗治の体が硬直した。冴由の瞳には、普段の気だるげな色気は微塵もなく、底知れない冷たさと強い執着が渦巻いていた。
「あのときも、結花が転ぶ前に宗治は気づいてた。だったら、私や紫陽に声をかけるべきだったの。もっと他人に頼ってよ……一人でああやって勝手に危ないことされると、私……」
言葉を詰まらせた冴由の目から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちる。その儚げな姿に、宗治の胸がチクリと痛んだ。
「ごめん……。次からは、ちゃんと冴由やみんなを頼るようにするよ」
慌てて謝罪の言葉を紡ぎ、宗治は泣きそうに震える彼女を自分の胸へと強く引き寄せ、優しく抱きしめた。
「……うん。約束だからね、宗治」
宗治の胸に顔を埋めた冴由。だか、彼の肩越しに覗く彼女の口元は――背筋が凍るほどに、冷たく、そして狂おしいほど満足げに歪んでいた。
だが、その背後に隠された本当の狂気に、宗治が気づくことはもう二度とない。




