辺境の選択
王都からの使者が馬を駆って砦を後にすると、ヴァルトの砦には押し潰されるような沈黙が訪れた。
つい先ほどまで鳴り響いていた笑い声も、杯を打ち鳴らす音も消え、祝宴の残骸だけがそこに取り残されている。
まだ湯気の立つはずだった料理は冷め、卓上の肉は硬くなり、芳醇な酒の香りさえ苦く変わっていた。
だが、その場に残ったのは恐れではなかった。
むしろ人々の胸を満たしていたのは、煮えたぎるような怒りであった。
「……ふざけるな」
最初に呟いた兵士の声が火種となり、次々と声が連なっていく。
「俺たちの血を……なんだと思ってやがる」
「援軍一つ寄越さずに、恩賞は“ささやか”だと? 冗談じゃねぇ!」
「王都は俺たちを見捨てたんだ! 今さら顔を出して、功績を横取りか!」
吐き出される憤りは尽きることなく、誰もが拳を握りしめ、歯を食いしばっていた。
王都が冷酷であることは皆、骨身に染みて知っている。
救援の要請は繰り返し無視され、物資の補給も滞り、ただ「耐えろ」と突き放され続けた日々。
それでも彼らは歯を食いしばり、仲間と肩を並べて戦い抜いた。
命を落とした戦友たちの犠牲、必死に守った家族、血にまみれながらも勝利を掴んだ――その努力を「勅命」の一言で踏みにじられるなど、到底耐えられるものではなかった。
砦全体の空気は重く、今にも爆発しそうなほどに張り詰めていた。
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その夜。
広間を離れたダリウスは、執務室の椅子に沈み込んでいた。
机の上には戦況図や報告書が乱雑に積まれ、燭台の炎がその上で揺れている。
彼は両肘を机につき、組んだ手に額を押し当てて黙り込んでいた。
重苦しい沈黙の中、扉を叩く音が響く。
「……入れ」
現れたのはロイだった。
顔には深い疲労が刻まれていたが、その瞳にはまだ火が残っている。
「ダリウス様……兵たちは、怒りを隠しきれておりません。ですが同時に……皆、あなたに従う覚悟を固めています」
ダリウスは瞼を開き、低く唸る。
「当然だ。俺たちは王都に見捨てられた……だが、それでも勝利した。王都に借りはない。しかも、あんなふざけた命令になどに従う義理もない」
言葉は冷静に聞こえたが、その声には烈火のような怒りが潜んでいた。
彼は地図に刻まれた境界線を睨みつけ、拳を固く握る。
「……問題は、これからだ。
王都に従えば再び見捨てられる。だが、逆らえば……」
言葉はそこで途切れた。
彼自身もまた、決断の重さを痛感していた。
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私もまた、使者の言葉が耳に焼きついて離れなかった。
王都で育ち、貴族として、殿下の婚約者として――王家に仕えることこそが誉れだと信じてきた。
忠義を胸に生きることが、当然だと思っていた。
けれど、今の私の目に映るのは、辺境の人々を見捨て、都合のいい時だけ声をかけてくる王族の姿。
(私は……王都にいた時、いったい何を見ていたの……?)
疑念は胸にこびりついて離れない。
だが、この地で共に戦った人々の苦しみと覚悟を知った以上、もはや目を背けることはできなかった。
足音が近づき、顔を上げればダリウス様がこちらを見ていた。
その鋭い灰色の瞳に射抜かれると、胸の奥まで見透かされるようで息が詰まる。
「……エレナ。君はどう思う?」
突然の問いに心臓が跳ね上がった。
王国への忠義と、ここで見た真実の間で心が裂かれそうになる。
それでも私は、震える唇を必死に動かした。
「……ランカスター王国は、私たちを都合のいい駒としか見ていません。
そうでないなら、あの時……援軍を寄越していたはずです」
喉が痛むほどの声で、それでも私は言った。
「ここで流された血を、無視するような命令に……私は従えません」
その言葉に、ダリウス様の瞳が静かに揺らいだ。
そして小さく、しかし確かに頷いた。
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翌日、砦の中庭に兵と民が集められた。
寒風の中、彼らの目は熱を帯び、期待と怒りが入り混じっていた。
私はロイ様と共にダリウス様の隣に立ち、高台からその顔を見渡す。
ダリウス様は一歩前へ出て、声を響かせた。
「皆、よく戦った。
お前たちが命を懸けたからこそ、この地は帝国に呑まれずに済んだ」
その言葉に、兵たちの胸は熱を帯び、民の瞳に涙が光った。
「だが――王都は我らを見捨てた。
援軍もなければ、補給もなかった。
それでいて今になって、ふざけた勅命の名のもとに功績すら奪おうとしている!」
怒りの声が群衆からあがる。
「そうだ!」
「俺たちは駒じゃねぇ!」
「王都の奴らに従ってたまるか!」
ダリウス様の声が一層大きく響く。
「ならば我らは選ばねばならぬ。
王都に屈し、再び見捨てられる未来を選ぶのか――」
彼は拳を高々と掲げた。
「それとも、己の血と大地を守るために――このヴァルトを独立させるのか!」
瞬間、広場は雷鳴のごとき歓声に包まれた。
「俺たちの大地は俺たちのものだ!」
「ヴァルトの地はヴァルトの民が守る!」
「独立だ! 独立を!」
その熱気は空を震わせ、砦の石壁さえ揺さぶるほどだった。
私はその光景を見つめ、胸の奥が熱く震えるのを感じていた。
かつて王都で夢見た「認められる」瞬間とは違う。
ここにあるのは、自らの意志で未来を掴もうとする人々の覚悟。
そしてその中心に立つのはダリウス様であり、気づけば私もまた、その一端を担っていた。
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独立の決断は、勢いのままに形となった。
ヴァルト辺境は王国から離れ、ヴァルト領としての自治を行うと宣言する。
だが同時に、重大な決断が下された。
かつて敵であったガルディア帝国に使者を送り、不可侵の同盟を結ぶという道だ。
「互いに侵略せず、交易を認める」――ただそれだけの約定。
不思議なことに、帝国は王都よりも誠実だった。
血を差し出せとも、忠義を誓えとも言わなかった。
ただ、互いの領土を尊重しようと述べただけだった。
その条件に、人々は驚き、そして胸を熱くした。
王都よりも帝国の方が、よほど真っ当ではないかと。
こうして――ヴァルト辺境は王国から離れ、新たな未来への第一歩を踏み出したのだった。
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ヴァルト辺境改め、ヴァルト自治領。
人々は独立を祝う宴を開いていた。
今度こそ、誰にも奪われぬ未来を信じて。
その夜、砦の塔に立ち、私は遠くを見つめていた。
風が頬を撫で、心に問いかける。
(私の居場所は……ここでいいのよね?)
迷いはまだ完全に消えない。
だが隣に立つダリウス様が、静かに答えを与えてくれた。
「君が選んだ道を、誇れ。これは君の努力が導いた未来でもある」
その言葉に、私は小さく頷いた。
この胸の奥には、確かな誇りが芽生えていた。
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