理不尽な勅命
ヴァルト辺境では、まだ帝国との戦の爪痕が深々と残っていた。
砦の石壁には破壊の跡が刻まれ、広場には折れた槍や焦げた盾が打ち捨てられたまま。
しかし、それでも民は生きていた。
焼け落ちた家々を建て直そうと木材を運び、瓦礫の間から食器や布を拾い集める。
子どもたちは泣き疲れて眠り、母親たちはその小さな手を握りしめながら炊き出しの列に並んでいた。
私もまた、その輪の中で奔走していた。
薬草をすり潰して煎じ、傷口を洗い流す。
病み上がりの老人には薄い粥をよそい、幼子には乾かした果物を渡す。
自分にできることは小さい。けれど、その小さな手立てが誰かの命を繋ぐのなら、迷う理由はなかった。
「エレナ様、本当にありがとうございます。……おかげで、この子の熱が下がりました」
母親が深々と頭を下げ、涙で濡れた手で子を抱き寄せる。
私は首を振り、かすかに微笑んだ。
「いえ……私は、ただできることをしているだけです」
その返答に、周囲から感謝の声が重なる。
「エレナ様のおかげで心が救われました」
「閣下と共に、俺たちを導いてくださった!」
兵士も農夫も、年寄りも子どもも――みな一様に私の名を口にして褒め称えた。
気づけば人々の視線が集まり、温かな輪の中心に立たされる。
頬が赤くなるのを隠すように、私は両手を胸の前で組んだ。
「……私など、皆さんの力を少しお手伝いしただけです」
そう口にした瞬間、広場に歓声が上がる。
「謙遜なんてしないでくださいよ!」
「本当に、あんたがいてくれて助かったんだ!」
その声が胸に染みて、視界が揺れた。
――これまで王都では幾ら努力しても、家族にも王子にも決して貰えなかった言葉。
それはただ一言、「ありがとう」という言葉だった。
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少し離れた場所から、その光景を見守る二人の男がいた。
「ダリウス様。エレナ様は……本当によく働いてくださいますな」
副官ロイが低く呟く。
その横で、ヴァルト辺境伯ダリウスは静かに頷いた。
「彼女は己を顧みず、民に尽くす。……努力の積み重ねが、今の彼女を形づくっているのだろう」
それは飾らない本心だった。
ダリウスは戦場で幾多の将兵を見てきた。勇敢な者も、恐怖に潰れる者も、欲に走る者も。
だが――己を削ってまで他者に尽くす者は、そう多くはない。
気づけば、エレナの存在は疲れ切った人々の支えとなり、彼自身の心をも静かに温めていた。
やがて人々の輪から抜けてきた彼女に、ダリウスは灰色の瞳を向けた。
「……よくやったな、エレナ」
短い言葉だった。けれど、それだけで胸の奥に灯がともる。
彼に名前を呼ばれるたび、自分がこの地で生きていいのだと――存在を認められたように思えた。
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祝宴のような喧騒が続く中、ロイが耳打ちした。
「閣下。王都より使者が到着しました」
その言葉に、ダリウスの目が鋭く光る。
「……早いな。勝報に慌てたか」
やがて広場のざわめきが収まると、重々しい衣をまとった使者が現れた。
彼は誇らしげに胸を張ろうとしたが、その足取りには迷いと怯えが滲んでいた。
「辺境伯閣下……そして、エレナ嬢。王都からの伝令をお伝え申し上げる!」
その声が響いた瞬間、広場を包んでいた笑い声や歌声は凍りついたように消えた。
代わりに、冷たい緊張が空気を支配する。
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私の心臓は、嫌な記憶を思い出すように早鐘を打った。
――王都からの使者。
かつて私を冷たく追放した場所。
その王都が、今さら何を伝えに来たというのか。
だが、隣にはダリウス様がいる。
彼の存在が背を支えてくれる。
もう私は、ひとりで立ち尽くすだけの娘ではなかった。
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「辺境伯ダリウス殿!」
使者の声が冷たい風を切り裂いた。
兵も民も一斉に注視する中、使者は高らかに言い放つ。
「このたびの帝国軍撃退、王家としてもまことに喜ばしいことと心得る。よって、陛下は辺境伯閣下に感謝の意を示し、ささやかな恩賞を授けると仰せである!」
だが――その言葉に兵士や民の間で失望のざわめきが広がった。
――ささやかな恩賞。
あの死闘を潜り抜けた民と兵に対し、たったそれだけ。
命を賭した戦いの重みを知る者にとって、その言葉は侮辱以外の何物でもなかった。
使者は人々の反応を無視して続ける。
「だが――この勝利は辺境伯閣下お一人の功績と申すには過ぎたもの。周囲の者どもが勝手に誇張し、噂を広めているにすぎぬ。とりわけ……」
使者の視線が人々の間をすり抜け、まっすぐに私を突き刺した。
「とりわけ、王都を追われた身でありながら“聖女”を自称し、無知な民心を惑わすとは――言語道断! 王家の威信を損なう行いである!ゆえに以後、軍事の采配はすべて王太子殿下の御名のもとに行われる。辺境伯はその補佐役として従え、との勅命にございます!」
その言葉が読み上げられた瞬間、広場の空気は氷のように冷え込んだ。
杯を持っていた兵の手が震え、酒が地面に滴る。
若者の顔から血の気が引き、母親は子を抱き寄せた。
つい先ほどまで「聖女」と讃えていた声は消え、残ったのは怒りと恐怖のざわめき。
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「……勅命、だと?」
ダリウス様の低い声が広場全体を震わせる。
私は思わず立ち上がった。
理不尽な宣告に胸が張り裂けそうになる。
この地を守るために命を賭した人々の意思を、あの人は何も知らずに踏みにじろうとしている。
(殿下……あなたは、何を……)
脳裏に浮かんだのは、かつての婚約者の冷たい笑み。
王都では尽くしても認められず、最後には追放された。
そして今、彼はこの地までも支配しようとしている。
怒りと悔しさが胸を灼く。
だが同時に、恐怖もあった。
私は知っている。王都の人間が辺境をどう見ているかを。
見下し、侮り、駒としてしか扱わないことを。
(このままでは、すべてが踏みにじられてしまう……)
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長い沈黙の後、最初に声を上げたのは古参の兵だった。
「……俺たちは、王都から見捨てられたはずだ。援軍も来ず、物資も届かず。それなのに今さら何を……」
その言葉に、別の兵が続いた。
「命を懸けたのは俺たちだ! 殿下の旗の下で戦ったわけじゃない!」
ざわめきはやがて怒りのうねりへと変わっていく。
だが誰も、決定的な一言を言い切れずにいた。
その時、ダリウス様が立ち上がった。
その姿だけで、広場を覆う空気が張り詰める。
「……お前たちの気持ちはよくわかる。だから、ここで答えを出す気はない。だが…」
ダリウス様の鋭い視線が使者に刺さる。
「一つだけ言えるのは、我らの血と汗を無視し、上から押しつけるだけの勅命に、従う理由はない」
その言葉に、兵士たちは息を吐き、民は拳を握った。
誰もが待っていた言葉――辺境を背負う男の確かな宣言だった。
使者の顔が青ざめる。
「し、しかしこれは殿下の御命……!」
「ならば王都に戻って伝えよ」
ダリウスは一歩前に出て、鋭い眼差しを突きつけた。
「――ヴァルト辺境は、王都の玩具ではないと」
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使者が慌てて退去した後も、広場は静まり返っていた。
だがその沈黙の奥には、確かな決意が芽生えていた。
私はダリウス様の横顔を見つめながら、胸の奥で強く確信した。
(この人なら……きっと、この地を守ってくれる)
そして同時に、願っていた。
(どうか……私も、この戦いの力になりたい)
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祝宴の笑い声はもう戻らなかった。
代わりに、静かに燃え立つ怒りと決意が広場を満たしていた。
こうして――王都からの使者は、辺境の誇りの前に打ち砕かれ、這うように帰還した。
それはやがて、王都との決別への序章となるのであった。
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