砦の黄昏
夕陽が赤く空を染めるころ、戦場もまた血の色に覆われていた。
まるで空と地とが競い合うように、赤と黒が砦を包み込んでいる。
矢は尽きかけ、投石器はすでに破壊され、石壁には幾筋もの亀裂が走っていた。
壁に手を当てれば、ひび割れた石がかすかに震え、砂粒のような欠片が爪にかかった。
今にも崩れてしまいそうなその感触に、喉の奥が冷たくなる。
「門が持ちません!」
「帝国軍、攻城槌を押し立てています!」
次々と駆け込む伝令の声が、空気を切り裂いた。
その言葉のひとつひとつが重りのように胸に沈み、砦全体の空気が張り裂けそうに重くなる。
人々の顔には疲労と恐怖が刻まれ、兵も民も皆、足を止めそうになっていた。
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その最中で、ただ一人――ダリウス様は最前線に立ち続けていた。
灰色のマントを血に濡らしながらも剣を振るい、敵兵をなぎ倒していく姿は、人の域を超えた猛将そのもの。
彼の剣が閃くたび、帝国兵が弾き飛ばされ、赤い飛沫が宙に散った。
だがその鎧は幾度も切り裂かれ、金具は歪み、肩口には赤い滲みが広がっている。
息は荒く、肩が上下していた。
それでも、振るう剣には一分の鈍りもなかった。
「ダリウス様!」
私は思わず声を張った。
血煙と炎に揺れる戦場の只中で、振り返った彼の瞳――灰色の光は、しかし揺らがなかった。
「心配するな、エレナ。……この砦は、まだ落ちぬ」
短く、ただそれだけを告げると、彼はすぐに背を向け、再び敵兵の中へ消えていった。
その背が遠ざかるほどに、胸が締め付けられる。
――あの人を守りたい。
だが、私にできるのは声を届けることだけ。
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「エレナ様!」
甲冑の音を響かせ、ロイ様が駆け寄ってきた。
顔は煤と汗に汚れ、唇には焦燥がにじんでいる。
「治療所が溢れています! 負傷者が入りきらない! 指揮を!」
「すぐに!」
私は迷わず頷き、すぐに人々を動かし始めた。
負傷者の搬送を急がせ、空いた場所には藁を敷かせ、血の匂いにむせる中で民たちを励まし続ける。
子どもが泣き叫び、母が布を裂いて包帯を作り、老人が震える手で血を拭っていた。
誰もが怯え、誰もが泣きたいはずだった。
けれど、それでも動きを止める者はいなかった。
恐怖に押し潰されそうになりながらも、誰もが「生き残るため」ではなく「誰かを救うため」に手を伸ばしていた。
その姿に胸が熱くなる。
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「皆さん! まだ動けますか!?」
私は血に染まった床の上で声を張り上げた。
振り返った無数の瞳が、怯えと疲労で濁っている。
「私たちが止まれば……ここで命を懸けている人たちの背を押す力が消えてしまう!
どうか、最後まで共に立ち続けてください!」
声が震えそうになるのを、必死に抑えた。
震えていた手が、再び力を取り戻すのが見えた。
涙を拭い、布を握り直し、立ち上がる人々。
その光景に、私自身の胸にも熱が込み上げる。
――私たちは、まだ折れていない。
だが、その瞬間――。
轟音が砦を揺さぶった。
門へ打ち付けられた攻城槌の最後の一撃。
鉄で補強された扉が悲鳴をあげ、巨大なひびが走る。
「門が……!」
叫びと同時に、砦の大門が崩れ落ちた。
鉄と木の破片が飛び散り、土煙が一気に吹き込み、視界を覆い隠す。
煙の奥から黒い影が雪崩れ込むのが見えた。
「敵兵、侵入!」
その言葉と同時に、兵たちの顔に恐怖が走る。
だが――。
「怯むな! まだ砦が堕ちた訳じゃない!」
土煙を裂いて轟いたのは、ダリウス様の声だった。
灰色の剣閃が煙の中を走り、侵入した帝国兵を次々となぎ払う。
鉄と肉が砕ける音と、血飛沫が地面を濡らした。
けれど、敵は止まらない。
次から次へと数百の兵が押し寄せ、砦の中庭はたちまち修羅場と化していった。
血と炎と鉄の音が渦巻き、地獄そのものの光景が広がっていく。
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「エレナ!」
戦場の混乱の中、兵士に指示を出しながらダリウス様がこちらへ向かってくる。
周囲の怒号にかき消されそうになりながらも、その声は真っ直ぐに届く。
「ここが正念場だ――皆を、頼む!」
「はい!」
涙が滲む。
でも、もう振り返らない。
ここで折れるわけにはいかないのだ。
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「押し返せ!」
ダリウス様の声が轟き、その剣が再び閃いた。
灰色の刃が振るわれるたび、帝国兵が地に伏し、兵たちの士気が蘇る。
その背中は、まるで砦そのものが形を得て戦っているようだった。
兵がその姿に続き、怒号が響き渡る。
私は負けじと声を張る。
「医療班は中庭の手前に! 傷が浅い者は矢を! 弓が使えない者は石を投げて!」
民が一斉に動き出す。
子どもすら瓦礫を抱えて走り、必死で投げている。
恐怖は消えない。
けれど、その恐怖を力に変えていた。
「私たちが支えるのです! この砦を――私たちの手で守るのです!」
私の声に応え、呻きながらも立ち上がる兵がいる。
それを見た民が涙を拭い、再び血を拭った。
その連鎖が広がり、絶望は希望へと姿を変えていく。
――まだ終わらない。
この砦が炎に包まれても、最後の一人になっても、私たちは立ち続ける。
誰もがそう誓った。
そして、その誓いが確かに砦を支えていた。
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