帝国軍
砦の上から見下ろすと、暗黒の地平線を這うように、無数の炎の列が近づいていた。
燃えさかる炎は、ただの野火ではない。
規則正しく並ぶ松明の光。まるで赤い大河が流れてくるかのように揺れながら、闇を押しのけて迫っていた。
「……あれが、ガルディア帝国軍」
喉が乾いて、声が震えた。
まるで大地そのものが唸りをあげて迫ってくるかのようだ。
目に映るのは幾千もの影。
ただ立ち並んでいるだけなのに、夜風に混じって伝わる鎧の軋みや槍のぶつかり合う音が、私の心臓を直接叩いてくる。
耳を澄ませば、重々しい太鼓の響きが腹の底を震わせ、足元の石畳すら脈打つように感じられた。
胸が締め付けられる。息が浅くなり、膝が笑いそうになる。
魔物の群れを見たときですら、これほど圧迫感を覚えなかった。
「人間」が組織立って動く時の恐ろしさ――その現実が、骨の髄に突き刺さった。
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「怖いか、エレナ」
背後から低く、落ち着いた声が響いた。
振り返れば、そこに立っていたのはダリウス様。
炎の列を見据える灰色の瞳は、一切の揺らぎを見せない。
「……ええ。でも」
唇が震えるのを抑えながら、必死に言葉を紡ぐ。
「でも?」
促す声は穏やかで、それでいて逃げ場を与えない。
「ここには……私を信じてくれる人たちがいます。だから、逃げません」
自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。
その瞬間、ダリウス様の口元がわずかに緩む。
「…強くなったな、エレナ」
ただ名を呼ばれただけ。けれど、その響きが胸の奥深くに熱を灯す。
膝の震えは止まらない。だが、不思議と心臓の鼓動は落ち着きを取り戻していた。
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その夜、砦の広場に人々が集められた。
石畳の上に火を灯した松明が並び、橙の光に浮かび上がるのは兵士だけではない。
村人、老人、女、子ども。戦えぬ者ですら、砦を守る役割を担うためここに立っていた。
「皆さん……」
私は震える指を握りしめ、一歩前に出た。
灯火に照らされる無数の瞳が、私ひとりを見ている。
その重みに胸が潰されそうになりながら、声を張り上げた。
「帝国軍は……恐ろしく大きな軍勢です。
けれど、私たちはこの地で生きてきました。
山も、森も、川も――この土地そのものが私たちの味方です」
自分の声が夜空に吸い込まれていくのを感じる。
一瞬の沈黙。誰もが不安そうに顔を見合わせている。
私は拳を握り、さらに言葉を紡いだ。
「どうか力を貸してください!
一人ひとりが守り抜く意思を持てば、この砦は決して落ちません!
私たちは……この地を、未来を、絶対に諦めません!」
声が張り裂けそうになるほど叫んだ。
そして――静寂の後、広場の片隅から「おお!」という声が上がった。
最初は小さな響きだった。
しかし次々と誰かが拳を掲げ、力強く応える。
兵も、民も、声を重ねてゆく。
「おお!」という叫びはやがて大きな波となり、夜空を揺るがした。
恐怖に押し潰されていた心が、一気に熱で満たされていく。
そうだ――もう私はひとりじゃない。
ここには共に戦う仲間がいる。
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「さすがですね」
その声に振り返ると、ロイ様が松明の光に照らされて立っていた。
眼差しは穏やかで、それでいて深い敬意を宿している。
「ダリウス様がなぜエレナ様を信じるのか……今ならよく分かります」
「……私はただ、出来ることをしているだけです」
小さく答えると、ロイ様はゆっくり首を振った。
「その“ただ”が積み重なって、人を救うのです。
それは、戦に勝つ以上の意味を持ちます。
命を繋ぎ、希望を繋ぐ……その役目を担える人は、そう多くはありません」
静かに告げられたその言葉が、深く胸に沁み込んだ。
私がしていることに、意味があるのだと――そう認められたようで、目頭が熱くなる。
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夜は更けていく。
砦の上では見張りの兵たちが交代で炎を見つめ、広場では村人が必死に石を積み上げていた。
眠る子どもを抱えながらも、誰もが「生きる」ための準備をやめない。
その光景に、私は唇を噛みしめた。
(……必ず守る。この地を、この人々を)
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そして――翌朝。
東の空が白み始めると同時に、帝国軍の陣から太鼓の音が鳴り響いた。
ドォン、ドォン……低く重い衝撃が大地を伝い、砦の石壁を震わせる。
「敵軍、前進開始!」
砦の上から見張りの兵が叫ぶ声が響いた。
地平線の向こうから、黒々とした波が押し寄せる。
整然と歩みを揃えた兵の列は、まるで一つの巨大な生き物のようだった。
槍の穂先が朝日を反射し、無数の光が閃く。
旗が翻り、帝国の紋章が赤黒い空気を切り裂く。
足音は地鳴りとなり、空気を震わせて迫ってくる。
私は胸に手を当て、大きく息を吸い込んだ。
恐怖はまだそこにある。
けれど、その恐怖を抱えたまま――私は前に進む。
(私は……人々の希望になるんだ)
砦の石壁の上、冷たい風が頬を撫でる。
その風の中で、私は小さく呟いた。
……いよいよ、戦いが始まる
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