急報
王都グランツヘイムの中心である、白大理石の宮殿「クリスタル・パレス」
その奥に広がる謁見の間は、群青の天井に金箔の星が散りばめられ、聖光大聖堂にも匹敵する荘厳さを誇っていた。
だが今、その神聖な空間は不安と動揺に満ちていた。
大扉が激しく開き、泥にまみれた伝令が膝をつき、声を張り上げる。
「陛下――! ガルディア帝国軍が、ヴァルト辺境へ侵攻しました!」
その一声に、廷臣たちのざわめきは爆発した。
文官は蒼白になり、軍人は思わず腰の剣に手をかける。
宮廷を覆う絹と香の空気が、一瞬にして血と鉄の匂いに変わったようだった。
「なに……?」
玉座に座す国王レオポルド三世が、深い声を発する。
五十代後半にしてなお威容を誇る男。かつて前線で剣を振るった勇士であり、民からは「穏やかなる獅子」と呼ばれている。
だがその獅子の顔に、今は鋭い影が落ちていた。
「ヴァルト辺境伯は、つい先日――千を超える魔物の軍勢を退けたばかりであったはずだ。そこに……帝国が、か?」
言葉の端に混じるのは驚愕と、得体の知れぬ疑念。
まるで帝国軍が、魔物の襲撃と呼応するかのように現れたことへの不審が、王の胸に刺さっていた。
伝令は苦渋に顔を歪め、声を震わせた。
「はっ……。それがまるで示し合わせたかのように、大軍を率いて……辺境は再び危機にございます!
陛下、直ちに援軍を――」
その必死の訴えを遮ったのは、王太子エドワードだった。
豪奢な衣装に身を包み、蒼い瞳を冷ややかに光らせる。
「援軍だと? くだらぬ。辺境には英雄がいるだろう」
「……殿下?」
廷臣たちがざわめく中、エドワードは唇に薄笑いを浮かべる。
「ヴァルト辺境伯ダリウス。あの男は“鉄壁の守護者”と呼ばれるほどの武勇を誇る。
それに……前回の戦で名を上げた、“追放された”エレナという女もいるではないか」
その名を口にした瞬間、廷臣たちの間に動揺が走った。
王都の華やかな広間にいる者たちにとって、エレナは忘れたい存在――己らの冷酷な仕打ちを映す鏡だからだ。
「し、しかし殿下!」
白髪の老臣が声を張る。
「辺境が落ちれば、帝国軍はそのまま平原へなだれ込み、王都に迫りますぞ! それだけは――」
だが、その声を甘やかな響きが遮った。
「ふふ……」
セシリアが、白い扇で口元を隠し、微笑んでいた。
王太子の婚約者にして、宮廷の華と称えられる美女。だが、その瞳の奥は氷のように冷たい。
「姉さまがいたからこそ、前回の辺境は守られたのでしょう?
ならば今回も大丈夫ですわ。援軍など、必要ございません」
「なっ……!」
廷臣たちは息を呑んだ。
その声音は柔らかで理知的に聞こえる。だがそこに含まれるのは、明らかな侮蔑と皮肉。
「姉さまが本当に優秀なのであれば、今回も辺境を守り抜いてくださるはず。
やみくもに兵を動かして王都の民を不安にさせるより、むしろヴァルト辺境の力を信じて差し上げた方が……よろしいのではありませんか?」
ざわめきが広がる。
甘美な毒を含んだその一言で、援軍不要の空気が広間を支配し始める。
玉座に座るレオポルド三世は沈黙したまま、険しい目を二人に向けていた。
王都の栄華に酔い、辺境の犠牲を当然とするこの態度こそ、王が最も忌み嫌うものだった。
だが、追い打ちをかけるようにエドワードが声を張り上げる。
「……セシリアの言う通りだ。辺境にはダリウスがいる。そして――エレナがいる。
彼らを真に王国の盾だと呼ぶのなら、それを今こそ証明する時ではないか!」
「殿下、それでは――!」
必死に声を上げる者もいたが、エドワードは冷たく切り捨てた。
「無駄口を叩くな! 辺境など、どうせただの捨て石だ。王都の安寧を守るための犠牲地に過ぎん!援軍どころか追加で支援物資すら送る必要もない!」
その言葉に、廷臣たちは凍りついた。
重苦しい沈黙が広間を覆い、誰もが目を伏せる。
ただ一人、エドワードだけが薄笑いを浮かべていた。
「それに――」
わざとらしく肩をすくめ、吐き捨てるように言う。
「エレナが本当に優秀ならば……今回も勝ってみせるだろうさ」
その残酷な言葉に、セシリアが紅い唇を歪めて小さく囁いた。
「ええ……。それに姉さまが失敗すれば……それで終わりですもの」
その呟きは甘く響いたが、誰にも拾われることはなかった。
ただひとり、玉座に座すレオポルド三世だけが、二人を鋭い眼差しで見据えていた。
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(……愚か者どもめ。
辺境をただの捨て石としか思わぬとは……。
王都がこの安寧を享受できるのは、誰の血と汗のおかげだと思っている)
(私は知っている。
若き日に前線に立ち、帝国兵の刃をこの身で受けたからだ。
ヴァルトの地で散った兵の悲鳴を、死者の冷たい瞳を、私は忘れたことがない)
(ダリウス……お前がどれほどの重責を背負っているか。
そしてエレナ……追放されたあの娘が、辺境で再び立ち上がったと聞いた。
王都が笑いものにしてきた彼女こそが、今や民の支えとなっているとは……皮肉なことだ)
(援軍を送らねばならぬ。
だが……エドワードがこれでは……)
視線を横に向ければ、王太子は薄笑いを浮かべ、セシリアは紅い唇を扇で隠している。
彼らの言葉は宮廷に毒のように染み渡り、廷臣たちの思考を縛ってしまった。
(……王の命で兵を動かすことは容易い。だが、ここで王太子を無視して決断すれば……派閥は割れ、王国の中枢に亀裂が入るだろう。
帝国より先に、我ら自身の分裂で国が崩れるやもしれぬ)
深く目を閉じる。
民を守るために兵を動かせば、王太子の愚を露呈させることになり、逆に王位継承を揺るがしかねない。
しかし、兵を送らなければ辺境は――。
(レオポルドよ……お前は王か、それともただの父か)
己に問いかけ、苦い沈黙を守るしかなかった。
――その沈黙に込められた王の真意を、まだ誰も読み取ってはいなかった。
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