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新たな脅威



砦の修繕が続く中、辺境の空気は不思議な高揚に包まれていた。

石垣の隙間にはまだ黒ずんだ血がこびりつき、柵の木材は焼け焦げ、至るところに戦の爪痕が残っている。

それでも人々の顔に浮かんでいたのは疲労だけではなかった。


千を超える魔物を退けた――その事実が、人々の心を確かに変えたのだ。

兵士たちは誇らしげに胸を張り、村人たちの瞳にも光が宿っている。

死と隣り合わせだった昨日までとは違い、自分たちが「生き残った者」であるという実感が勇気を与えていた。


私自身も、あの戦いを共にした仲間として、兵士や村人から声をかけられるようになっていた。



「エレナ様、あの避難の采配は……本当にお見事でした」

「おかげで子どもを失わずに済みました」



深い皺を刻んだ老兵の手が震えながらも私の肩を叩き、母親は涙ながらに幼子を抱きしめて頭を下げる。

その一言一言が胸に熱を灯し、体の奥底からじんわりと力が湧き上がってくるようだった。


――この地に来て初めて、心から「役に立てた」と思える瞬間だった。


それは王都にいた頃、どれほど望んでも得られなかった感覚。

私は、ようやく居場所を見つけたのだと感じていた。



---



しかし、その温かな余韻は長くは続かなかった。

砦の空気を一瞬で凍りつかせる報せが舞い込んだからだ。



「北の国境沿いに……帝国軍の旗が現れたとのことです!」



荒い息を吐きながら兵士が駆け込み、広間に声を響かせた。

途端に人々のざわめきが止まり、まるで空気そのものが重くなったかのように張り詰めていく。


帝国――ガルディア帝国。

隣国であり、ランカスター王国にとって常に最大の脅威であり続けた存在。

魔物とは違う、人の知略と武力を持つ恐るべき敵。



「まさか、魔物の襲撃を好機と見て、帝国が侵攻に動くとは……」




ロイ様が顔を曇らせ、低く呟く。

その声には焦りと怒りが入り混じっていた。


私の背筋に冷たいものが走る。

魔物の群れにすら死を覚悟したのに、今度は帝国軍――。

膝が震え、思わず自分の両手を握りしめた。


だがその場に沈黙を破る声があった。



「……やはり、妙だな」



地図の上に影を落としながら、ダリウス様が低く呟いた。

その瞳は鋭く、ただの偶然を疑うかのように光っている。



「妙……とは?」



ロイ様が眉をひそめる。



「魔物の群れがこれほど一斉に押し寄せるのは、自然の摂理ではあり得ん。まるで何者かに導かれていたかのようだった」


「まさか……帝国が関わっている、と?」



重い沈黙。

広間にいる誰もが、その可能性を心の奥で否定しきれずにいた。



「奴らならできる。希少な魔術師を使い、魔物を操って辺境を荒らす……あり得ぬ話ではない」



ダリウス様の声が冷たく響く。

その言葉に兵士たちが息を呑み、私の心臓も強く打った。


――もし、あの地獄が帝国によって仕組まれたものだったとしたら。

私たちは、すでに戦の序章に巻き込まれていたのかもしれない。



---



「……恐いか、エレナ」



灰色の瞳を私に向け、ダリウス様が静かに問う。

胸が跳ね、唇が震えた。



「……はい。帝国軍など、想像するだけで……足がすくみます」



正直にそう答えるしかなかった。

けれど、彼は少しも否定せず、ただ真剣に私の言葉を受け止めた。



「だが君は前にも震えながら立っていた。魔物に押し潰されそうになりながら、それでも逃げなかった。そして、皆を守った」



「……!」



「君がいたから、あの絶望を生き延びられた者たちがいる」



その灰色の瞳に込められた確信が、私の恐怖を溶かしていく。



「今度も同じだ。帝国が何を仕掛けようと……君がいれば、この地は立ち向かえる」



震えていた足に力が戻る。

胸に熱いものが込み上げ、私は深く頷いた。



――逃げない。たとえどんな脅威が迫ろうとも。



---



翌朝。

砦の石畳にはまだ血の匂いが残っていたが、人々の動きは力強さを取り戻していた。


瓦礫を運び出す男たち。

壊れた壁を修復する職人。

傷を負った兵を介抱する女たち。


誰もが生き残ったことを喜び、そして未来を見据えて前へと進もうとしていた。



「エレナ様、こちらの避難所の物資がまだ足りません!」



慌ただしく帳簿を手に駆け寄ってきたのはロイ様だった。

疲れを隠せない額の汗が、彼の切迫感を物語っていた。



「分かりました。昨日の残りの備蓄を回しましょう。それから、傷薬はまず重症の方へ優先して」



私が指示を出すと、周囲の人々が素早く動き出す。

その顔に浮かぶのは不安ではなく、確かな信頼の光。


――こんなふうに、誰かに必要とされる日が来るなんて。


胸がじんわりと温かくなったその瞬間、背後から低い声が響いた。



「……随分と板についてきたな、エレナ」



振り返ると、ダリウス様が立っていた。

その灰色の瞳が、静かに私を見つめている。



「ただ、必死でやっているだけです」



情けない答えだと思った。

けれど、彼はわずかに首を振り、力強く言う。



「必死になれる者が、結局は信頼を得るんだ。エレナ。これからも頼む」


「……!」



その名を呼ばれた瞬間、胸が強く打った。

今までとは違う響きを帯びた呼び方に、喉が熱くなり、言葉が出てこない。


ただ小さく頷くと、彼は微かに笑みを浮かべた。



---


辺境では復興が少しずつ進み、戦で傷ついた土地に再び人々の笑顔が戻りつつあった。

だが、その裏で帝国の影は確かに広がりつつある。


魔物の群れを操ったのが本当に帝国なのか――まだ確証はない。

けれど、誰もが心の奥で恐れていた。


これはただの戦ではない。

もっと大きな陰謀の幕開けなのだ、と。


そしてその渦中に、私は立っているのだと。



---

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