ここにいる意味
冷たい風が砦を抜けていった。
秋のはずなのに、吐く息は白く、辺境の空気はすでに冬の気配を孕んでいる。
吹きつける風は肌を切るようで、頬に触れるたびに細かな痛みを残した。
外では兵士たちが黙々と槍や剣を点検している。
革鎧が擦れ合う音、馬の嘶き、鍛冶場から届く鉄を打つ甲高い音。
その一つ一つが、近づきつつある戦いの影を知らせていた。
(これが……戦の前触れなのね)
王都で暮らしていた頃には、決して近くで聞くことのなかった音。
けれど今、それは日常の一部として私の耳に染み込んでいた。
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「避難小屋の毛布は足りていますか?」
後ろからかけられた声に振り返ると、ロイ様が帳簿を手にして立っていた。
相変わらず鋭い眼差しだが、どこか疲労の色も滲んでいる。
私は急いで手元の記録を見返し、首を横に振った。
「三家族分が不足しています。ただ、予備の麻布を縫えば――」
「分かりました。縫える者を集めましょう。針と糸の在庫は?」
「納屋に残っている分で、なんとか足ります」
「ならば問題ありません」
素早い判断に、私はほっと息をついた。
ロイ様は一瞬だけ私を見て、ほんの僅かに表情を緩める。
「貴女がいなければ、この確認も滞っていた。……感謝します」
「い、いえ……私はただ」
思わず否定しかけたが、彼の言葉が胸に残り、喉が詰まった。
王都で学んだ礼儀作法も歴史も、今は役に立たない。
けれど「人をまとめる力」だけは、この場で確かに役立っている。
(私がここにいる意味……少しはあるのだろうか)
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そのとき、ふと視線を感じて顔を上げた。
砦の入り口に、鋭い眼差しのまま人々を見渡す人影――ダリウス様だった。
彼は人々の働きを一巡し、最後に私のもとで足を止める。
重い足取りが砂利を踏みしめ、その気配が近づくたびに心臓が高鳴った。
「……君が指示しているのか」
短い言葉。
それは叱責でも命令でもない。
ただ、私を中心に据えて放たれた言葉だった。
「はい……私なりに、できることをと思って」
「そうか」
彼はわずかに頷き、鋭い眼差しを少しだけ和らげる。
「……君がいて助かる」
その声は低く、しかし確かに温かかった。
初めて耳にしたそのときと同じように、喉の奥が熱くなる。
認められたいと願いながらも、家族からも王子からも決して与えられなかった言葉。
それが、今、この荒涼とした地で何度も与えられている――。
私は慌てて頭を下げ、声を絞り出した。
「ありがとうございます……」
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「ダリウス様、北方の斥候から報告です!」
鋭い声が響き、兵士が駆け込んでくる。
場の空気が一気に張り詰め、私の手は無意識に帳簿を閉じていた。
「数は?」
ダリウス様の低い声が広間に落ちる。
「三百近くに増えているとのことです。明日には接触する恐れが」
ざわめきが広がる。
誰かが小さく舌打ちし、別の兵は青ざめた顔で地図を見つめる。
私は拳を握りしめ、息を呑んだ。
(……魔物が三百。どんなものか想像すらできない……)
私にとっては未知の、魔物との戦いが目前に迫っている。
血の気が引き、足元が冷える。
それでも、逃げ出そうという気持ちは湧かなかった。
(私にできることを……しなければ)
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その夜。
砦の物資庫で、私は最後の点検をしていた。
棚に並ぶ干し肉の袋、麦の樽、水袋の数を指先でなぞりながら数える。
ランプの炎が小さく揺れ、冷たい空気がじわじわと体に染みる。
(これで本当に足りるの……?)
不安が胸を締めつける。
戦に必要なのは武器と兵だけではない。
食料も水も、避難民の生活も守らなければならない。
胃が固くなるほどの緊張。
生まれて初めて、戦の渦に自ら足を踏み入れようとしている。
「……ここにいたのか」
背後で低い声がして振り返ると、ダリウス様が立っていた。
暗がりでも彼の姿は揺らぐことなく、静かな威圧感を放っている。
「君がここでしてくれていることが、領民の支えになる」
その一言で、不安と恐怖に押し潰されかけた心が支えられた。
胸の奥で小さな光が強く灯り、涙が滲むのを必死にこらえる。
「……私にできることは限られています。それでも……」
「限られていても構わん。大切なのは、君がここにいるという事実だ」
その声は低く落ち着いていて、どこか優しい響きを含んでいた。
私は深く息を吸い込み、拳を強く握りしめる。
(逃げることは、もうしない。私は、この地で生きると決めたのだから)
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こうして私は、辺境の人々と共に命をかけた本当の戦いを迎えることになった。
守れるかどうかは分からない。
この砦が落ちるのか、それとも守り抜けるのか――。
未来は霧の中だ。
けれど、一つだけはっきりしている。
(私は、ここにいる意味を見つけた)
そう思えたからこそ、震える足を前に踏み出すことができた。
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