不穏な影
避難の準備は、思った以上に骨の折れるものだった。
人々はそれぞれの生活を守ろうと必死で、指示に従うどころか反発する声すら上がる。
「家畜を置いて逃げろだなんて無理だ!」
「先祖代々の土地を離れられるか!」
大人たちは自分の家や荷物を気にして動こうとせず、子どもたちは不安と緊張から泣き出してしまう。
兵士たちも訓練に追われており、人手が足りない状況は変わらなかった。
私は胸の前で拳を握りしめ、声を張り上げる。
「ここにいては危険ですし、魔物を倒せば戻ってこれます!!
だから落ち着いてください!必ず皆さんが無事に逃げられるようにしますから!」
喉が焼けるように痛んでも、声を止めるわけにはいかない。
すぐさま手にしていた木板を広げ、そこに描いた図を示す。
「こちらは東の小道から。家畜を連れて行く人はこちらの列に。西の道から逃げる方は、広場で合流してください!」
混乱する人々の視線が板に集まり、ざわめきが少しずつ静まっていく。
王都で王妃教育の一環として叩き込まれた「群衆整理」の知識。
無駄だと思っていた知識が、今は人々を導くための光になっていた。
「……なるほど。これなら分かりやすい」
「この順番なら、馬車がぶつかることもなさそうだ」
横で兵士が安堵の息を漏らし、領民たちも次第に列を作り始める。
「貴女の言葉なら、皆も素直に聞くようだな」
その言葉に胸が熱くなる。
だが同時に、私の手は細かく震えていた。
それでも――泣きじゃくっていた子どもが泣きやみ、母親が安心したように微笑むのを見たとき、心の奥に小さな誇りが確かに灯った。
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日が暮れる頃。
避難経路の確認を終え、人々を送り出した私の足取りは重かった。
訓練場の隅に腰を下ろし、深く息をつく。
「……はぁ……」
肩で荒く呼吸を繰り返す。
足は棒のようで、声も掠れていた。
けれど、不思議と後悔はなかった。
そんな私のもとへ、背の高い影が近づいてきた。
気配に振り返ると、ダリウス様が立っていた。
夕闇に染まる砦の中で、彼の影は一際大きく、頼もしく見えた。
「……よくやってくれた」
低く響く声。
それはただの評価の言葉ではなかった。
私という存在をきちんと見て、告げられた言葉だった。
「い、いえ……私は、ただ――」
慌てて言い訳を口にしようとしたが、その先を遮るように彼は言った。
「君がいなければ、民が混乱して避難は進まなかっただろう。……それは間違いない事実だ」
真っ直ぐな声が、胸の奥に届く。
初めてだった。
努力や形式ではなく、存在そのものを認められた気がした。
その温もりが胸いっぱいに広がり、思わず俯いてしまう。
「……ありがとうございます」
小さな声でそう返すのが精一杯だった。
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その後も避難誘導は続いた。
私は物資の確認や子どもたちの世話に奔走し、兵士たちと肩を並べて働いた。
「次の小隊はここに麦を積みます。水袋はこちらへ!」
「この子たちを馬車に。順番に!」
兵士たちは忙しい合間に私へ声をかけてくれた。
「貴女がいると助かる」
「言葉が柔らかいから、皆が従いやすい」
その一言一言が、私を支えてくれる。
疲労で足は重く、手には小さな傷もできた。
それでも心は、不思議なほど軽やかだった。
(私は……この地でなら、生きられる)
そう信じられるようになったから。
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しかし、砦の外では不穏な影が日に日に濃くなっていた。
斥候の報告によれば、北から迫る群れの数はますます増えているようだ。
「牙の生えた獣の群れを見た」
「二足で歩く異形の影が、森を越えて進んでいる」
――最初は百に満たなかった数が、二百を超える規模にまで膨れ上がっているという。
「奴らは本格的に動き出すだろう」
「砦を飲み込むつもりか……」
兵士たちの声は低く、重苦しかった。
私は報告の全てを知らされてはいなかったが、廊下で交わされる断片的な言葉を耳にするたび、胸の奥が冷えていくのを感じた。
(初めての……魔物との戦いが目の前に)
私はまだ知らなかった。
この戦いがどれほどの犠牲を伴うものなのかを。
けれど確かに――闇は迫りつつあった。
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