私にできること
北から押し寄せる影の噂は、日に日に濃くなっていった。
斥候が戻るたびに報告は増え、広げられた地図の上に赤い印がじわじわと砦へ近づいていく。
「黒い群れを見た」「牙を剥いた異形が夜を歩いていた」
そんな言葉が飛び交うたび、兵士たちの表情は険しさを増していった。
その印を見るたび、胸の奥に冷たいものが広がった。
けれど同時に、どこか不思議な実感もあった。
「戦いはまだ遠い話」ではなく、確実に迫る現実なのだと。
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「……やはり、魔物どもか」
会議の場でダリウス様が低く呟いた。
灰色の瞳が地図に落ちると、広間の空気が一層引き締まる。
兵士たちは一斉に背筋を伸ばし、真剣な眼差しで主の声を待った。
「哨戒を増やせ。北門には二重の見張りを置け。備蓄の確認も怠るな」
矢継ぎ早に飛ぶ指示。
鋭い声が響くたび、兵士たちが次々と「はっ!」と声を合わせる。
私は壁際に控えていた。
目の前で繰り広げられる光景に、まるで大きな渦の中へ巻き込まれそうな感覚を覚える。
(魔物が……本当に、来るの?)
恐ろしい。
胸は不安でいっぱいだ。
でも――逃げるつもりはなかった。
(私に……できることは何だろう?)
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会議が終わった後、兵たちが広間を出て行く。
地図を片づけようとしたダリウス様に、私は思い切って声をかけた。
「た、大変申し訳ありません……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
鋭い瞳がすぐにこちらを向き、思わず息をのむ。
「なんだ」
「兵の方々が戦っている間……領民や子どもたちは、どうするのですか?」
言った瞬間、場の空気が張り詰めるのを感じた。
彼は一瞬黙し、低く答える。
「戦えない者は避難させる。……だが人手は足りない」
短い答え。
けれど、その隙間に私はすがりついた。
「でしたら……私に手伝わせてください。避難経路や物資の配分なら、まとめ役として動けます」
声は震えていた。
けれど、そこに嘘はなかった。
自分でも驚くほど真っ直ぐに言葉が出ていた。
ダリウス様はしばし黙し、腕を組んで私を見つめる。
鋭い眼差しに射抜かれて、心臓が喉から飛び出しそうになる。
やがて、深く息を吐き、短く告げた。
「……分かった。無理はするなよ」
「……っ、はい!」
その瞬間、胸の奥で熱がぱっと灯るのを感じた。
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翌日から、私は兵士や領民と共に村を回ることになった。
安全な避難場所の確認、家畜の移動手順、そして食料や水の備蓄。
「まず、ここからこの丘を越えて避難します。急ぎの場合は――」
私は板に簡単な図を描きながら、人々に説明する。
言葉だけでは混乱しやすい。
だからこそ、目で見て分かるように。
「子どもでも分かるように」と、できる限り柔らかい言葉を選んだ。
「……なるほど、分かりやすい」
「おお、これなら迷わず動けそうだ」
次第に人々の顔が和らいでいく。
「貴女がまとめてくださり助かります」
「言葉が柔らかいから、みんな落ち着くな」
背中にそんな声が届いた瞬間、思わず胸が震えた。
(……私でも、本当に役に立てているんだ)
王都で積み重ねた学びが、今ようやく生きている。
誰かを安心させるために、自分がここにいる――その実感が温かかった。
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その夜。
砦の廊下を歩いていたとき、不意に背後から声がかかった。
「……大丈夫か」
振り向くと、ダリウス様が立っていた。
松明の影の中、彼の鋭い眼差しはいつもと変わらぬ強さを帯びている。
「む、無理はしていません。皆さんが協力してくださって……」
慌てて答えると、彼はほんのわずかに目を細めた。
「村での働き、聞いている。……悪くない」
その一言は短く、淡々としていた。
けれど、耳に届いた瞬間、胸の奥にまで染み込んでいく。
「は……はい。ありがとうございます」
深く頭を下げた私を、彼はしばし見つめ、何も言わずに歩み去った。
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残された私は、胸の前で両手を強く握りしめる。
(私のことを……見てくれている)
恐怖も不安も消えたわけではない。
けれど、魔物の影が迫る現実の中でも――確かに光はあった。
(もっと……役に立ちたい。この地で、生きたいから)
決意は、静かにけれど確実に、心の奥で強さを増していった。
夜空の星は静かに瞬き、冷たい風が砦を吹き抜けていく。
それでも、私の胸の中には小さな炎が消えることなく灯っていた。
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