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第二章−3:「沈黙」

林道の空気は重たく、湿気を帯びた風がススキの葉をかすかに揺らしていた。

その中に、異質な匂いが混ざる。焦げたタイヤ。エンジンオイル。血。


倒れた軽自動車のボディは、前方を木に擦りながらスライドした形跡を残し、助手席側を下にして横転していた。車体の下に溜まった液体がじわりと土に染み込み、エアバッグは無残に萎んでいる。


そして、その数メートル先──

背の低い草むらに、ひとりの少年が膝を抱えていた。

土埃と草の中に座り込んだまま、何も見ない目でただ前を向いている。


名前は、マサル。

ただし、それは本人の口からではなく、近くに倒れていた自転車のフレームに書かれた記名によって判明したものだった。

苗字は不明。事故との関係性もはっきりしない。

だが、ひとつ確かなのは、自転車に乗っていた彼が車と接触しかけ、間一髪で命拾いしたという事実だ。


「意識レベル、JCS300。呼吸浅く、皮膚蒼白。骨盤骨折の疑いあり。頭部裂傷あり、内出血の可能性も」


現場に響く冷静な声は、久我明弘のものだった。

彼は目の前の男性──神代圭介の容態を確認しつつ、的確に処置の準備を進めていた。


神代は政府の高官であり、“休日法”と呼ばれるこの制度を強硬に推し進めた中心人物の一人。その本人が、制度当日に事故で倒れている。運命的な皮肉だった。


久我の隣で、大町澪が手早く止血と酸素投与の準備を進めている。


「先生、これ。神代圭介って名前で間違いないみたいです。官僚証、車内で確認できました」


「……“あの”神代か。澪、こいつはA-1。少年は?」


「外傷は見られません。擦過傷程度。身体的には問題なさそうですが、反応が鈍いです。会話は……今のところ成立していません」


「過呼吸もショック症状も出てないか?」


「今のところは。でも、視線が合わないです。トラウマ性失語の兆候かもしれません」


久我はうなずき、遠巻きに少年を見た。

記名にあった名前──マサル。年齢はおそらく10歳前後。けれど、それ以上のことは何もわからない。


「搬送の準備を進める。神代と少年、両方とも保護対象だ。親の所在確認は?」


「まだです。身分証や連絡先も見当たりませんでした」


澪はマサルの小さな肩に毛布をかけながら、そっと言った。


「大丈夫よ。あなたのことは、ちゃんと誰かが見つけてくれる」


けれど、マサルは反応を示さなかった。

ただ、その目だけがわずかに動いた。まるで、何かを探すように──あるいは、もう見つけられないと知っているように。


やがて、車載のストレッチャーが運ばれ、神代は慎重に収容されていく。澪はマサルに付き添い、手を取るが、少年はやはり言葉を発さない。


雲が流れ、太陽が顔を出した瞬間、久我はふとつぶやいた。


「人間にとって、“休日”とはなんだろうな。命を差し出してまで守るようなもんだったか?」


誰にともなく投げかけたその言葉は、誰にも届くことなく、風の中へ消えていった。

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