第二章−4:「救命救急車にて」
救命救急車の中、冷たい金属音とサイレンの遠吠えのようなうねりが空間を満たしていた。
久我明弘は、無言のまま意識不明の男性――神代圭介の容体を確認し続ける。皮肉なものだと、胸の奥でだけ思った。政府中枢にいたはずのこの男が、今や“労働禁止日”の緊急処置によって、自分の手で救われようとしている。
「出血多いな……脾臓か? いや……肋骨が折れて肺に刺さってる可能性もある」
「BP、90の60……下がってます。酸素濃度も……」
大町澪が手際よく処置を進める。彼女の手は震えていない。この制度の矛盾と戦いながらも、彼女は“命の場”に戻ってきていた。
久我は無言で頷くと、ポケットから申請済みの処置許可証の紙をチラリと確認する。**「代休義務:あり」**の文字が小さく記載されている。
「この男、誰だと思う?」
澪がちらりと神代の顔を見る。自転車に乗っていた少年の記名とは違い、彼の身元はすでに判明していた。
「神代圭介。確かに……この制度を押し進めた中心人物の一人だったはず」
「皮肉ですね。制度の初日に、まさか自分がその制度に救われるとは」
澪の声には怒りよりも、諦めに似た微笑があった。
「でも……それでも、救うんですね、先生」
久我は神代の首筋に触れながら短く言った。
「俺たちが“正しさ”を決めて動くなら、それは政治だ。医療じゃない」
その言葉に、大町はかすかに眉を下げて頷いた。
一方、ストレッチャーのもう一方、少年――マサルは、毛布に包まれて小さくうずくまっていた。頬に擦過傷。呼吸は浅く、だが意識はある。言葉はまだ出ていない。ただ、じっと神代の方を見つめていた。
久我が少年の元に近づき、膝をついて顔を合わせる。
「名前、わかるか?」
無言。
大町がマサルの自転車から拾ったヘルメットを渡し、そこに油性マジックで書かれていた文字を指差した。
「これ、“マサル”って読むんだよね?」
少年はわずかに頷いた。
「マサルくん、この人のこと、知ってる?」
マサルはかぶりを振る。そして……唇を開いた。
「……ぶつかった。おれ、飛ばされた」
その一言に、久我と澪は視線を交わす。少年の精神的ショックは予想より深いかもしれない。だが、今は追い詰めるより、救うことが優先だ。
「大丈夫。君の体も、心も、ちゃんと診るよ」
久我の言葉に、マサルの目がかすかに潤んだ。
サイレンが徐々に弱まっていく。受け入れ可能な拠点病院まで、あと数分。再開された非常ルートを進む救急車の内部では、休日の定義が静かに問い直されようとしていた。




