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第十章−9:「オワラナイ」


夜の静寂が、徐々に張りつめた空気を孕んでいた。


郊外の小道を歩く春日たちの足元を、かすかに月明かりが照らしている。街灯はなく、ただ信号機がぽつぽつと青や赤に色を変える。その機械的な光だけが、今この社会にまだ「何か」が機能していることを伝えていた。


「……なんか、年越しみたいね」


ぼそりと呟いたカナの声は、いつもより柔らかい。けれどその口元には、どこか冷めた笑みが浮かんでいる。そんな彼女の目に映っていたのは、道路の脇に立ち尽くす人々だった。


「もう少し…あと少し……」


誰かがそう口にするのが聞こえた。見れば、複数人の男女が集まり、空を見上げたりスマートフォンの時計を気にしていたりしている。家族連れもいれば、若いカップルのような姿もあった。


「まるでカウントダウンイベントね。滑稽って言ったら失礼かしら」


カナが小さく鼻を鳴らした。


だが春日は、その言葉にすぐには同意しなかった。彼の視線はただ、道端に佇む人々に向けられていた。どの顔にも、何かを待つような緊張と、言い表せない高揚が入り混じっていた。


「……なんだろうな。やってることは確かに滑稽かもしれないけど、あの人たち、心のどこかで信じてるんだよ。今日が、何かを変えてくれるかもしれないって」


春日の声に、カナが振り返る。その表情には驚きと、わずかな感心が入り混じっていた。


「恭平……あんた、たまにズルいくらい優しいわね」


吉田はというと、まったく別のことを考えている様子だった。顔を伏せ、歩きながらも何度か小さく息を吐いていた。マサルのことだ――父として、これからどう関わっていくか。その答えは出ていない。出るはずもなかった。


そんな3人の様子を、トーコが冷静に解析していた。


ー「方向性のばらつきが著しいですね。誰一人として、同じ場所を目指しているわけではない。物理的には同じ方向に進んでいるのに」


春日が少し笑って答える。


「同じ道を歩いてるからって、同じ目的地があるとは限らないよ」


ー「非効率な進行ですね。けれど……人間らしくて、悪くはありません」


トーコの声はいつもの調子だったが、その抑揚のなさがかえってこの場の空気に溶け込んでいた。


ふと、吉田が空を見上げる。


「……星、やたら綺麗だな」


春日も同じように空を仰いだ。街灯のないこの夜だからこそ、視界いっぱいに広がる星々が、まるで地上の混乱など知らないように、静かに瞬いていた。


そして――その星々の下、時間は刻一刻と進んでいく。


街に漂う空気が、ほんの少しだけざわつき始めていた。

誰かが時計を見て「あと3分」と呟く。


春日たちは言葉を交わすのをやめ、足を止めた。


「……何か、始まりそうだな」


誰の言葉でもなく、夜の空気がそう語っているようだった。


その場の全員が、無言のままその瞬間を待っていた。


──時刻は、23時59分を回った。


誰からともなく、周囲に立っていた人々が息を潜めるように黙り込んでいた。

まるで年越しを待つ人々のように、けれどあの時のような祝祭のムードはない。

代わりにそこにあったのは、期待とも不安ともつかぬ、言葉にしがたい「静かな祈り」のような空気だった。


「なんだよこの感じ……背筋がゾワゾワするな」

春日がぽつりと呟いた。


カナも思わず腕を組んで、周囲を見渡す。

無言の集団、どこかざわつく風の音、信号機の変わる音だけが規則的に響いている。


「特別なことが起きるわけじゃない。ただ、日付が変わるだけなのに……」


ー「人間の感覚はしばしば、意味を持たない時間に意味を求めます」とトーコ。

ー「それが結果的に文化となり、祝祭日となり、あるいはこのような試験的政策にも通じているのです」


「まるで哲学講座ね」とカナが吐き捨てるように言ったが、声にはどこか緊張が混じっていた。


吉田は、スマートフォンの画面を見つめていた。

時刻表示は──23:59:55。


彼がぽつりと漏らした。「……カウントダウン、だな」


5、4、3、2、1──。


何かが鳴るわけではなかった。

花火が上がるわけでも、誰かが歓声を上げるでもない。


だが、空気が確かに変わった。


──0:00


一瞬、風が止んだように思えた。

それはただの錯覚だったかもしれない。けれど春日は確かに、何かが「切り替わった」と肌で感じていた。


そして──周囲の数人が、安堵するように膝を崩した。

しばらく祈るように空を見上げていた中年の女性は、小さく頷いて立ち去っていった。


「……乗り切った、って思ってるのかな」春日が静かに呟く。


「それで何が変わるってわけじゃないのにね」とカナ。


ー「いえ、彼らの多くは“何も変わらなかった”ことに安心しているようです」

トーコが静かに補足する。

ー「この日が“何かを奪い去る日”ではなく、“そのまま続く日常の延長”だったと証明された──その感覚が、この静かな達成感を生んでいるのかもしれません」


「それにしても……変な一日だったな」吉田がスマホをポケットにしまう。


「変だったね。でも、なんか……面白かった」


春日がそう言ったとき、遠くの空がほんのりと色を変えはじめていた。

それは夜明けではなかった。まだ数時間ある。


けれど、この「切り替わった時間」を超えたことで、彼らはひとつの節目を迎えたのだった。


そして、ほんの少しだけ──春日は星空が前よりも近くに感じられた。

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