第九章−11:「二人の視点、ひとつの輪郭」
病室内には、静かな緊張が漂っていた。人工的な光と機器の音が満ちる空間で、春日とカナは向かいに座る神代の視線を受け止めながら、それぞれの言葉を選んでいた。
「……正直、自分がこんな場所で何か言えるような立場じゃないってのは、百も承知なんですけど」
春日は少し笑いながら切り出した。だがその笑みには、気取らない誠実さが滲んでいた。
「でも……今日、この“無労働日”ってやつを、夜明けからずっと歩いてみて、思ったんです。頭で考えてた制度の形と、実際に現場で感じた空気って、まるで違うなって」
神代は目を細め、春日の言葉に耳を傾けていた。
「たとえば、電車が動いてなくて立ち往生してる人、炊き出しの場所で揉めてる人、夜になってから動き出す謎の暗闇集団──それぞれの人が、それぞれの事情でこの日を過ごしていて、誰一人“正しい”わけでも“間違ってる”わけでもない。ただ、誰もが“わからない”って顔してたのが印象的でした」
しばしの沈黙のあと、春日はそっと視線をカナに送る。
「……なあ、カナさん。あの時言ってたよな、“みんな好き勝手やってるようで、誰も好き勝手できてない”って」
「言ったね。ちょっと毒気も混ざってたけど」
カナは少し照れたように肩をすくめてから、神代へと視線を向け直した。
「私はね、普段カフェで接客やってて、“人を見る”って癖がついちゃってるの。だから今日も無意識のうちに、出会った人たちを観察してた」
「ほう……どんな人物が印象に残ったか、聞かせてもらえますか?」
神代の静かな問いかけに、カナは迷いなく一人の名を挙げた。
「芹沢あかり。名前も顔もキャラも濃かったから印象深いってのもあるけど……でもそれだけじゃない。あの子、普通じゃないの。言動は奔放だし、変な敬語使うし、急にカフェごっこ始めるし。でも、それを“やりたいからやってる”っていうより、“やるべきだからやってる”って感じがした」
神代の表情が、わずかに変わった。
「やるべき……?」
「うん。多分だけど、“この日に自分がすべきこと”を、あの子なりに真剣に考えてたと思う。遊びっぽく見えても、根っこはすごく真面目」
「……興味深いですね。その子に、直接話を聞いてみたくなりました」
春日とカナが、軽く目を見合わせる。
ー《芹沢あかり氏の現在地は、指定された私有地内で特段の労働行為を伴わない範囲で待機中です。ただし──》
トーコがスマートに補足するように口を挟んだ。
ー《本日中の面談は、時間的制約および訪問予定の混雑を考慮し困難と推定されます。》
「……なるほど。では後日、正式にアポイントを取りましょう」
神代は静かにうなずいた。
「この制度の本質を測るには、統計や報告だけでは足りない。実際に、今日を生きた人々の“内側”を知る必要がある──」
神代の声には、行政官としての冷静さの中に、ほんの少しの人間らしい熱が混ざっていた。トーコはそれを観察データとして黙々と記録していたが、春日とカナはただ、その変化の兆しを直に感じ取っていた。
「……あかりに伝えておきますよ。今度、お偉いさんが話を聞きたがってたって」
「“お偉いさん”……それは少々、荷が重い表現ですが、まあ構いません」
神代はわずかに口元をほころばせた。
カナは、ふと思い出したようにぽつりと言った。
「……あかり以外なら、あの炊き出しの現場で出会ったおじいちゃん。名前は聞けなかったけど、炊き出しの列にいたのに、なぜか配膳の手伝いまでしてて」
「列にいたのに、手伝いを?」
神代が少しだけ眉を上げる。カナはうなずいて続けた。
「ええ。『もらうだけじゃバランスが悪い気がしてね』って、笑いながら割り箸を袋から出して並べてた。完全にアウトかセーフかで言ったら……正直、グレーゾーン。でも、あの人は“やっちゃいけない”と“やらなきゃいけない”の間を、ちゃんと考えて動いてたように見えたんです」
「なるほど……制度の隙間にいるような人ですね」
神代は静かに呟いた。その言葉には評価とも懸念とも取れる余韻が含まれている。
「でも、だからこそ考えさせられました。この制度が“正しい”かどうかを判断するのは、法律や政府の人じゃなくて、実際にこの日を生きる人たちだって」
春日がそれに同調するように、やや砕けた口調で加える。
「制度が理屈の上で正しくても、感情までカバーできるとは限りませんからね。“おかしい”って感じた人が多ければ、それはもう“おかしい”ってことになるわけで」
「……ふむ」
神代は考え込むように頷いた。
「それでも、混乱を抑えるためのルールは必要なんですよね?」
カナが少しだけ問うように言うと、神代は答えようとした――が、その直前、トーコの淡々とした声が会話を割った。
ー《申し訳ありませんが、面談対象者・神代圭介の身体的負荷上昇を確認。IRMAの指針に従い、これ以上の面談は推奨されません。ここで打ち切らせていただきます》
「……むぅ。まあ、確かに少し息苦しいなとは思っていたが」
神代が自嘲気味に苦笑する。それを見た久我がふっと肩をすくめた。
「じゃあ私も戻りますかね、代休の強制がなかったら泊まり込みたかったぐらいですが」
「それはまずい。君が過労で倒れたら“無労働日”の理念そのものが台無しだ」
神代が冗談めかして返すと、すかさずトーコが挟み込んだ。
ー《それはあなたにも同様です。神代圭介。IRMAおよび私からの複数警告を、今まで無視し続けてきた記録があります》
一瞬の静寂のあと、病室内に和やかな笑いが起きた。マサルさえ、小さくくすっと口元を緩めていた。
「じゃあ、今日はこの辺でお開きということで」
久我が立ち上がりながら締めると、大町も立ち上がり、神代の枕元に視線を向けた。
「次はもう少し、落ち着いた話ができるといいですね」
神代は小さく頷きながらも、どこか遠くを見るような目をしていた。すでに次の“何か”を考えているような──そんな眼差しだった。




