第八章−14:「記憶のない記憶」
「……マサルくん、ゆっくりでいいからね。体調は大丈夫?」
ベッド脇にしゃがんだ久我明弘が、柔らかい声で問いかけた。
マサルは小さくうなずく。そのすぐ横に立つ大町澪が、静かに笑みを浮かべて言った。
「無理に話さなくていいの。でも、話したいことがあったら、ちゃんと聞くから」
病室には、落ち着いた空気が流れていた。
春日とカナはドア寄りの位置で、椅子に腰かけてそっと様子を見守っている。
吉田はベッドの足元に立ち、落ち着かない様子で目を逸らしたまま、マサルを見ようとして、また逸らしていた。
そしてその間も、トーコは一切の言葉を発さず、壁際に設置されたパネルと同調しながら、
マサルのバイタルと周囲の動向、会話内容を逐一ログとして整理し、IRMAへのデータ送信を続けていた。
「……おれ……」
マサルの唇が、小さく震えた。吉田が顔を上げたのとほぼ同時だった。
「……ごめんなさい。……あのとき……ちゃんと見てなかった」
「見てなかった?」
久我が少し眉を寄せながら訊き返すと、マサルは目を伏せたまま、言葉を絞り出した。
「事故のとき、ちゃんと見てなかった。横断歩道も、車も、全部……。
でも……ずっと、頭の中で何かがぐるぐるしてて……。そのせいで、声も出なかったし……」
沈黙が病室を包んだ。
吉田が一歩、ベッドに近づこうとした瞬間、大町が静かに手を出して制した。
「続けて、マサルくん」
「……うん」
マサルの声は小さいが、確かだった。
「意識は……あった。事故のあとも、車の中でも、病院に来てからも……全部、ぼんやりしてたけど……全部、少しずつわかってた。
でも……わからないふりしてた。……わからないふり、してたんだと思う」
「……どうして、そうしたの?」
久我の問いに、マサルは少し考えてから答えた。
「……自分が、なにしていいのか、わからなかったから。
声を出したら、誰かに迷惑かける気がして……黙ってたら、誰も困らない気がして……」
「困らなかったわけじゃないよ、マサルくん」
今度は大町が、真っ直ぐな瞳で言った。
「でも、困るとか困らないより、あなたの心がどうだったかが、もっと大事」
その言葉に、マサルの肩が少しだけ震えた。
「……こわかった」
吐き出すようにそう言った瞬間、マサルの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「こわくて……どうすればいいか、わからなかった……。
お母さんがいなくて……家にも誰もいなくて……でも、お父さんのところに行こうと思って……。
でも、会って、なんて言えばいいか……ずっと、考えてた……」
吉田が、口を開けかけて、また閉じた。
代わりに春日が、静かに目を伏せながら呟くように言った。
「……言葉にしようとすればするほど、出てこなくなるんだよ。わかる」
カナが、うなずく。「考えすぎて、言葉が遅れるタイプなんだね。わたしも、そうだったことあるよ」
吉田が、ゆっくりと膝をついた。
「……マサル」
ようやく目が合う。マサルは目を真っ赤にしていた。
「謝らなくていい。お前が何を思ってたか、ちゃんと知れてよかった。
ごめんな。父親として、ちゃんと……」
その言葉は最後まで続かない。代わりに、マサルが微かに微笑んだ。
「……お父さんって、呼んでいいのかなって……それも、ちょっと迷った」
「……いいに決まってんだろ」
吉田が、噛みしめるようにそう答えた瞬間、病室の空気が、ふっと柔らかくなった。
壁際のトーコが、無言で次のデータ送信を終えた。
そして、パネルに目を向けたまま、静かにその内容をIRMAに渡していく。




