第三章−5:「揺れる灯火」
サイレンの音は、まるで都市の静寂に傷を入れるように響き渡っていた。午後の日差しが傾きはじめ、窓から差し込む光はストレッチャーの金属フレームを鈍く照らしている。
救命救急車の後部。わずかな揺れの中、久我明弘は黙々と患者のバイタルを確認し続けていた。
「血圧、80台を維持。酸素、流し続けて」
「了解です、ドクター久我」
大町澪の返事は簡潔だったが、目は常に少年と神代圭介の状態を追っていた。
神代の胸には酸素マスク。出血性ショックの兆候は依然として強く、体温も下がりかけていた。服の内ポケットから取り出されたIDカードには、見覚えのある省庁の名前が印刷されていた。
「よりにもよって、“中央官僚”様か……この国の働き方改革の旗振り役が、労働禁止日に一人で運転してたなんてね」
久我の声に、澪が少し眉をひそめた。
「……そういう人ほど、真面目すぎるんですよ。休日でも働くのが使命だと思ってる」
「使命ってのは、死んでから語られても遅いんだけどな」
少年――自転車に書かれていた名前から、マサルと仮称されていた子――は、神代のような重篤な状態ではなかったものの、軽度の脳震盪と、右足の骨折の疑いがあった。ショック状態か、反応が鈍い。
「名前はまだ確認できてない?」
「自転車に“マサル”って記名がありました。苗字は不明。でも、どこか怯えたような目で……こっちを見てました。事故というより、何かから逃げてたみたいな」
「逃げてた?」
久我はちらりとマサルの方を見やる。その顔にはかすかな擦過傷、そして明らかに“どこか別の場所”を見つめる目をしていた。
「保護者の確認ができるまでは、我々が対応するしかない。病院に着いたら一旦、児相にも連絡を」
「はい……でもこの子、いつの間にか現場から離れてたんですよ。搬送直前まで……。どこかで、誰かと……」
澪が言いかけた言葉は、突如強まった車体の揺れにかき消された。病院の敷地が近づいている証だった。
久我は心中で時刻を確認する。もうすぐ午後四時。搬送から処置室への移動、初期対応、それから……また次のケースが待っているだろう。
「今日が“労働禁止日”じゃなければ、交代要員がいたんだけどな」
「……ドクター」
「分かってる。文句じゃない。これは“覚悟”だよ、澪ちゃん」
その一言で、車内は再び静けさに包まれた。わずかに軋むタイヤの音。ストレッチャーの金具が鳴る。患者の呼吸音。どれもがこの“特別な休日”に似つかわしくない現実の音だった。
そして、救命救急車は病院のロータリーに滑り込む。
自動ドアが開くと同時に、灼けたアスファルトの熱気とともに病院の冷気が車体に流れ込んだ。
「ストレッチャー、神代さんから先に!」
久我明弘の指示に、待機していたスタッフたちが即座に動く。災害級の人員不足の中でも、訓練と経験で鍛えられたプロたちは一瞬の無駄もなく連携していた。
「血圧低下傾向、意識レベルJCS200。ショック状態続行。腹部CTとFAST優先」
「承知しました、ドクター!」
ストレッチャーの足が折れたまま、神代圭介は処置室へと運び込まれていく。エコー技師とCT室はすでに準備済み。休日のはずなのに、病院の一角だけは平日以上の速度で動いていた。
次にマサル。小柄な身体には見るからにサイズの合わない首輪型の固定具が巻かれていた。
「小児、頭部外傷軽度、下肢に変形あり。詳細はX線待ち。意識は清明だが反応鈍め」
大町澪が後を追って簡潔に申し送りを行うと、看護師のひとりが彼女に手渡す冷えた缶コーヒーを差し出した。
「お疲れさま。これ、さっき医事課の人が差し入れに置いてった」
「助かる……。あの子、どこかで見た顔なんだけど、保護者情報は?」
「まだ不明。名前は“マサル”って自転車に書かれてたって、あんた言ってたよね?」
「うん。フルネームは分からないけど……何か、気になるの」
スタッフルームの奥では、別の救命医師が電子カルテとにらめっこしながら対応計画を確認していた。ベテラン看護師たちはルーティンワークのように補助に入り、点滴、記録、モニターの設定を進めていく。
「澪ちゃん、ちょっと外で深呼吸してこいよ。交代要員いないけど、10分くらいならバレない」
久我が冗談めかして言うと、澪は缶コーヒーを軽く掲げた。
「ありがと、でも……もう少しだけ見てから。なんとなく、今日だけは目を離したくない」
「予感か?」
「職業病、かもね」
一方、神代圭介の処置室では、急変に備えて輸血パックの準備が進められていた。経歴の確認も進み、内閣官房所属、働き方改革推進室の室長という肩書きが判明していた。
「……この人の“改革”が、現場の俺たちにどんな影響与えてたか、皮肉なもんだな」
「口に出す前に顔に出てますよ、ドクター久我」
「悪いな、澪ちゃん。医者だって人間だ。言い聞かせるようにしなきゃ、バランス崩す」
モニター音が静かに鳴り続けていた。
今日という休日の本当の意味――それは、こうした場所で黙々と命と向き合う者たちの背後に、語られることなく存在していた。




