第三章ー2:「書類と彼と、そして休日」
午前八時をまわった頃、吉田圭吾は誰もいない学園都市の外縁を歩いていた。
左手には、厚みのある茶封筒。右手には、もう汗の染みたハンカチ。
もともと今日、彼はここにいるはずではなかった。
週末にもかかわらず、旧勤務先である中小物流会社から突然呼び出しを受けたのは、政府が「無労働日」の実施を宣言した数日前のことだった。
「吉田さん、人手が足りなくて……お願いできます?」
かつて彼が営業所長として全責任を負わされていた現場は、慢性的な人材不足とサービス残業の泥沼に浸っていた。
ブラック企業の典型、だった。
彼は一年前に退職したはずだったが、どうやら“便利な元所長”として社内に記録が残っていたらしい。
当日、吉田は返事をしなかった。
だが、封筒の中には、その会社から送られてきた一連の「契約再締結確認書類」が入っていた。
内容は滅茶苦茶だった。日付の記載もずれていれば、署名欄にはすでに印刷された自分の名前まである。
「まるで幽霊が働く契約書じゃねえか……」
思わず苦笑し、彼はハンカチで額の汗を拭った。
この封筒をどこに持っていくか、実のところ決めていなかった。
労基署も閉まっている。役所も当然、今日は全て停止。通信も駄目だ。
吉田の目論見は、封筒を抱えたまま「どこかに答えがあるかもしれない」場所へ向かうという、半ば放浪のような行動だった。
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家庭の話をすると、あまり語ることはない。
離婚して久しい。元妻と暮らす息子とも、もう何年も連絡を取っていない。
息子は今年、ちょうど高校生になったはずだった。
自転車に乗るようになって、もう会っていない。
口喧嘩を最後に、親子の関係は停止したままだ。
だが、なぜか今日に限って彼の胸には「自転車のベルの音」がやたらと響いていた。
記憶のどこか、耳の奥に、懐かしいものが引っかかる。
そんな気持ちを振り払うように、吉田は歩き続けていた。
そして、あの場所で出会った。
妙に目立つ髪色の若者と、毒舌を吐く元カフェ店長、そして謎めいたアンドロイド。
最初は目も合わさなかった。書類を持ったまま、彼はただ「人がいる」ことに安堵した。
「なあ、どこか水、飲める場所……あるかね……?」
その一言が、すべての始まりだった。
あの瞬間、彼もまた「特別観察対象」に指定されたことに、本人は気づいていない。
ふと、前方に見覚えのある人影を見つけたとき、吉田圭吾は立ち止まった。
「……あれ、やっぱりカナさんじゃないか」
口に出した瞬間、自分の声があまりに乾いていることに気づき、気恥ずかしさに眉をひそめる。
──幻じゃない。生きている人間だ。
それでも、再会の場面が感動的になるはずもなかった。
彼がこれまでに歩いてきた距離と、引きずってきた記憶の重さは、あの小さなカフェの扉が閉まった時から、どこにも置き場を見つけられずにいたのだ。
吉田の胸ポケットに入ったままの、くしゃくしゃの紙切れ──営業停止となったカフェの閉店通知。その日、彼はそれを持って、なぜか“足が向くまま”に歩いていた。目的はなかった。ただ、あの日の空気に触れれば、何かが戻るような気がしていた。
AI「トーコ」のログにはこう記録されていた。
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観察記録:個体Y(吉田圭吾)
状態:観察対象認定、レベル3(感情依存型)
特記事項:
・無労働日制度下における社会的接点の喪失後も、過去に縋る行動傾向を示す。
・「記憶の中の場所」に執着し、現実を更新する能力が著しく低下。
・特定の施設および人間関係に過剰な心理的価値を投影。
・当該個体の心理傾向は、共感性の高い若年層(例:柴田カナ)との不安定な結合のトリガーとなる恐れあり。
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その頃、トーコは無言で、吉田の様子を一定距離から観察していた。
(彼は、まだ「生活」の外にいる)
そう感じた。柴田カナのように、接客の現場で感情を表に出す強さもなければ、春日恭平のように状況に対する反発も持っていない。ただ、古い記憶と決着をつけられず、同じ場所を何度も巡っている。
──それでも、人の「幻」を追うその執念こそが、時に予測不能な変化を生む。
トーコにとって、吉田圭吾は「静かすぎる危険因子」だった。
そしてその“因子”が、今まさに、カナと春日と同じ場に立っている。
それは、偶然ではなく、無労働日という「社会的ストレステスト」の過程における、何かの兆しのように思えた。




