[05]
くちづけの最中に名前を呼んでみた。思い出したから。ただそれだけのことで、私の世界はひっくり返った。文字通り。間近に見えるシングさんの顔、その先に天井、私の背中はソファにぴったりとくっついている。
視線を絡ませて、もう一度確かめるように名前を呼ぶ。間違えてはいないはずだ。「シングさん」「……っ!ミナミ様……!」
どこか切なそうに呼ばれた自身の名前に、私は歓喜に震えた。知ってたくれた。覚えててくれた。呼んでくれた。ああ、なんて、なんて。涙が溢れた。自分の名前が呼ばれることがこんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。シングさんも同じ気持ちだったのだろうか。
そこからはひどく性急だった。何度も何度もお互いの名前を呼び合って、何度も何度も身体を繋げた。お互いの感情や気持ちを確認する時間も惜しかった。確認する必要すらなかった。だって私は、この人の眼差しに射貫かれたその時から、きっと、ずっと。そして、シングさんのあの時の視線の答えも、恐らくは。
愛とか恋とか正直良く分からない。それでも、この人と共にいたいと思った。出来ればずっと。終わりまで。
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シングさんは、ひどく無表情で、そして無口という表現では言い表せないくらい、言葉が足りない。
表情からも言葉からも何も読み取ることは出来ないが、それでも態度はとても分かりやすいと思う。いや、正しくは分かりやすくなった、だろうか。弱り切った私の身体にはシングさんとの行為はとても負担で、翌日にぐったりとしてしまった私を甲斐甲斐しく看病してくれた。
そして異常とも思えるほど私を甘やかし、すきあらばくちづけを落としてくる。それは唇だけじゃなくて額や頬だったり手だったり。行為の最中も含めれば、私の身体でシングさんがくちづけてない場所は恐らくないだろう。それほどにも過剰な愛情表現に、私は困惑しながらも満更でもない、と言った状況だ。
こちらに来たばかりの頃はシングさんの視線が苦痛で一人になりたくて仕方がなかったのが嘘のように、私は誰かに愛されることや誰かが傍にいてくれることがこれほどまでに幸福を産むのかと驚愕している。シングさんが傍にいて支えてくれるから、やっと前を向くことが出来るようになった気がする。徐々に食事も増え、顔色も良くなった。少しずつだが笑うようになった。前を向いて、笑って、やっと人並みの生活に戻れたような気がする。
人は一人では生きていけない。なんて言うけど、ずっとそんなことないと思っていた。一人は楽だし、自由だし、余計なストレスを産まない。そう思ってた。けれど実際には日本にいた私は一人が好きではあったけど、決して孤独ではなかった。本当の孤独がどんなものかなんて知らないけど、シングさんがいなければ、この世界での私は日本にいた頃よりずっと孤独で、ひとりぼっちだった。シングさんが触れて名前を読んでくれなければ、きっと私の心は壊れてしまったんだろうとさえ思う。
シングさんがいてくれて良かった。私の白騎士がシングさんで、良かった。
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私とシングさんの関係が目に見えて変わったはずなのに、侍女さんたちは何も言ってこない。むしろなぜか微笑ましいものでも見るような目で見られているが、彼氏と歩いていると近所のおばさんが生暖かい目で見てくるようなものだろうと割り切った。恐らく皇帝陛下や宰相閣下にもすでに情報が行っていることだろう。けれど何も言ってこないと言うことは、公認されているようなものだろう。
なんて思っていたのは間違いだった。ある日突然訪ねてきた宰相閣下に拉致られて、いつもと違う部屋でいつもと違う人達に全身をまるっと洗われて、いつもと違う服を着せられて、神殿の、私が現れたホールにぺいっと投げ出された。大きなステンドガラスの前には白いひげを豊かに蓄えたおじいさんと、いつもとは違う真っ白な衣装に身を包んで着飾ったシングさん。そう言えば私も随分と布が贅沢に使われた白いドレスを着ている。
いつの間にか隣になっていた皇帝陛下に導かれて、シングさんの隣、おじいさんの前へと歩み出る。そこまで来てやっと気付いた。これは、もしかして、まさかと思うけど。まるで、結婚式、の、ようだ。
いつの間にそういう話になったのだろうか。私が気付かなかっただけで、実はプロポーズをされていたのだろうか。いや、さすがにそれはないと思う。人の話を右から左へと流しがちな私でも、さすがにシングさんの貴重で、数少ない言葉を聞き逃すとは思えない。もしかしたら逆に私がプロポーズでもしたのかと思ったが、声の出し方を忘れそうなほど、会話らしい会話がないのだ。その中でプロポーズに踏み切る勇気が私にあるとは思えない。
第一、シングさんは私でいいのだろうか。私なんかでいいんだろうか。愛も恋もわからない、怠惰で不真面目な私でいいのだろうか。……私は、シングさんがいい。
そうぼんやりと物思いにふけっていると、おじいさんが長々としたセリフを紡ぎ、私とシングさんに微笑みかけた。それにシングさんは落ち着いた、けれど力強い声で言った。「誓います」
正直、おじいさんが何を言っているのか聞いていなかった。けれど何を答えればいいのかは分かる。神様なんて信じてないし、誓う相手なんていない。それでも、私は、死がふたりを分かつまで、シングさんの傍にいることを、「誓います」
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そうして私は、異世界で家族を手に入れた。それからシングさんと長い時を過ごすことになったけど、結局彼を愛してるのか、恋をしているのかは分からなかった。けれどずっと傍にいたくて、隣にいたくて、シングさんが欲しくて、それだけは確かだった。会話もほとんどない静かな生活の中で、シングさんの気持ちを確かめる機会もなかったけど、きっと彼も私と似たようなものなのだろう。一緒にいたい。ただ、それだけ。
決してよくある異世界でのお話でも、心躍るロマンスのお話でもなかった。不器用な私達の、名もないお話。
[一宮みなみ]
真面目系クズ。好きなものは昼寝。くしゃみがおっさん。
[シング・ベルセリウス]
顔の筋肉が死んでる。コミュ障。割りと美丈夫。
[皇帝陛下]
為政者としては優秀だがちょっとアホ。猫が好き。
[宰相閣下]
恐らく国で一番空気が読める。猫が嫌い。