66:婚約破棄
「────お取込み中すみません」
突如響いたアナンの声。
二人同時に体を震わせ、リュネットとクルードは互いにのけ反った。
焦りと動揺で心臓が跳ね踊る。
恥ずかしさが押し寄せて仕方ない。
リュネットは両手で口を押え顔をそむけた。
完全に周りが見えていなかった。
心臓が喉までせり上がるのを感じつつ、リュネットがぎこちなく目を向ければ、そこには聖女の泉を背景に佇む案内人・アナンの姿。
……ああ、はしたない……!
そう黙り、全身の熱さに指を絡ませるリュネットの背に、ぐっとした力が届いた。クルードが腕に力を込めたのだ。背にまわっていた腕がより強く自分を引き寄せ──そこに感じた、彼の意思。
どぎまぎする自分とは対照的に、クルードはアナンを見据え毅然と声を張る。
「────────居たのか」
「ええ。初めから」
「フン、趣味の悪い」
「あなた方が勝手に始めたのです、趣味が悪いのはどちらでしょう?」
言葉少なく吐き捨てるクルード。
にやりと笑うアナン。
先ほどの淡い空気も焦りも今は綺麗に霧散して、部屋は緊張でヒリついていた。
彼に肩を抱かれながら、リュネットは深紫の瞳でアナンをみつめた。
聖女の泉を後ろに悠然と立つその様は、もう、喉元に「次」を用意しているようで、否応なしに意識が行く。
リュネットの中に懸念が走り抜ける。
よくよく記憶を辿れば、彼女はまだ、『このあとを知らない』。
『水を掬え』と言われ手を出した次の瞬間には、手のひらの暗澹に呑まれ闇の中だった。
おそらく、試練は打ち破ったのだと思うけれど……
次に何を言われるのかわからない……!
警戒を宿し目を向けた先、アナンの銀の瞳が静かに光る。
それは、先ほどまでの柔らかい案内人の顔ではなく、明らかなる『司祭』であり『監察官』だった。
そしてアナンは言い放つ。
ゆるりと後ろ手を組みながら、余裕ある笑みを浮かべて。
「リュネット・サルペント聖女候補。貴女は見事試練を打ち破りました。貴女には聖女の冠と役目が授けられます」
「──して、どうしろというのだ」
「────3年」
────3年?
時が止まった。
3年?
────……さん……ねん……?
脳が空虚にから回る。
血液が空になった感覚。
空洞の身体の中で、鼓動だけが懸命に鳴り響く。
ことばの、いみが、わからない…………
指の先すら動かせぬ状況に、アナンの声だけがはっきりと響くのである。
「リュネット・サルペント聖女。貴女には三年、聖堂に籠り力を磨いていただきます。その間、家族であろうとも会うことはできません」
聖女として認められれば、あなたのそばで
胸を張れると思っていたのに
これからは、あなたの隣で
気取らず笑って過ごしていきたかったのに
「修練は明日から。今夜はお二人で、どうぞごゆるりとお過ごしください」
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ヒトは、受け入れがたい現実を突きつけられたとき、思考を止める。
理解できない言葉は、すぐには心に落ちてこない。
いや、心どころか、脳が理解を拒んでいるようで……どこまでも空虚で、別の世界の話のようだった。
聖堂を出て、手を引かれ着いたのは今日の宿。
アナンに背を向けた後、彼は一度もリュネットの手を離さなかった。
しかし、二人のあいだに会話はなく、ただただ沈黙が落ちるばかり。
温かみのある優美な室内。二人掛けのソファーと、ひとりかけの椅子にそれぞれ腰を下ろして、悪戯に沈黙を作りどれぐらいの時間が経っただろう?
3年。
3年。
──3年。
言葉にするのは、一瞬。
けれど、その一瞬の響きの裏には、途方もない時の重みが横たわっている。
たった3年と思うには、長すぎる。
たった3年と思えないほど、短すぎる。
季節は3度巡り、咲いた花は、散り、また咲く。
生まれたばかりの幼子は、言葉を覚え、歩き出す。
旅立った者が帰るには十分な時間であり、待つ者にとっては永遠にも等しい。
リュネットはじっと、足元を見つめたまま、そっと瞳だけを動かした。
その視線の先、一人掛けの椅子に沈黙を貫くクルードの姿。
揺らがぬ背筋。
けれどその手が、膝の上で静かに握り込まれている。
……苦悶が滲んでいた。
彼もまた、3年という時間の重みを測りかねているのだろうか。
この沈黙が、どうしようもなく重たくて、どうしようもなく苦しくて。
だから、リュネットは、言葉を選んだ。
──選んでしまった。
「…………クルード様」
出た声は、自分でも驚くほど苦しみに満ちていた。
「……どうした」
返る声はどこか固く、冷たい。
彼が放つ、〈聞きたくない〉を押しのけて、彼女は絞り出すように言った。
「──婚約を、取り消してください」




