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60:オルセリアの静謐 



 神官アナンは語る。




「以来、滝を穏やかに保つことそのものが、我がオルド大陸の「治水」となりました。この滝が穏やかであり続けるよう、匿い護ることが聖堂の役目。そして、聖女に選ばれた者には、その滝と泉を守り、大地の調和を司る役割が課されるのです」



 ──聞いて、心がぐらついた。

 自分が背負うものの大きさに慄く。

 そんな意識は、自然とリュネットの口から戸惑いとなってこぼれ出る。



「……そんなこと、わたくしに務まるでしょうか……」

「さあ、どうでしょう。それを知るのは神のみ。我々ニンゲンが考え悩むことではありません」



 アナンの声は少々冷たい色を孕んでいた。

 まるで、「余分なことを考えるな」と語っているようで、居心地が悪い。

 神殿内の装飾はどこまでも清らかなのに、心が落ち着かない。


 不安な心は答えを求める。

 それに応えたかのように、彼女の脳が用意したのは、クルードとネネの言葉であった。


 『聖女は信仰の対象だ』。



 ……確かに、大地を流れる川の全てが、聖女の祈りによって穏やかに保たれているのであれば、あがめ奉られているのは納得できる。ただ、それらの役目を秘匿にする必要があるかどうか、リュネットにはわからなかった。



 大地にとって聖女が必要不可欠なら、むしろその役割を公にする方が人々の協力を得られるのではないだろうか。しかし、別の観点から見れば、それは同時に「聖女は治水の要」と公表することになるのではないだろうか。




 ──だとしたら、公表はしないだろう。

 聖女の役割が、それすなわち国家の基盤を支える重要なものならば、公表などしない。弱点を晒すようなものだ。



 リュネットは小さく息を吐く。



「──つまり、『祈るだけの存在ではない』ということですね……」

「ご明察。ある意味『生神』になるようなものです。ははは」

「──ならば、婚姻や出産は? 叶わないのでしょうか?」



 間を置かずに聞いていた。

 そこも不明瞭だったからだ。

 今までで一番、不安と焦りがにじみ出たその問いに、返ってきたのは端的な音。




「──いいえ。治水の力とそれらに何の因果がありますか?」

「……!」



 酷く冷たい声に背を伸ばした。

 何をつまらぬことを言っているのか、そう言われた気がした。

 けれど、それはリュネットにとって大事なことだ。

 


 ──彼の隣に立っていたい。

 その気持ちで、この場に臨んだのだから。


 そんな自分を見透かすように、アナンは述べる。淡々とした声で。



「リュネット・サルペント候補。聖女の器も資格も力も、あなた自身に備わっているものです。貴女が誰を愛そうが、子を産み育てようが、それらが失われることはありません」



 淀みなく響いていた声が、そこで止まった。

 意味深な沈黙に目を向けた時、アナンの小さな呟きが響く。



「……ただ、選ばれれば、の話ですが、ね」



 選ばれれば?

 どういう意味だろう。



 リュネットは違和感を覚えたが、それを考える余裕はなかった。

 アナンが立ち止まったのである。

 永延に伸びている廊下の真ん中、不意に手をかざす彼女。それに応えるように、空間がゆがみ、分厚く高い扉が現れる。



 否応なしに突きつけられる。

 きっとこの先は、特別な場所だと。



「さあ、これが『聖女の泉』です」



 重い扉の先。

 アナンが示した先にあるのは、静寂そのものを体現したかのような、透き通る水の湛えられた泉だった。


 まるで神の国の泉を切り抜いたような佇まいに、リュネットは息を呑んだが、アナンは平然と手を広げ、述べる。



「ここで、まずは泉に手を浸し、神聖なる水を掬い上げてください。」



 言われ、リュネットは泉へと歩みを進めた。 



 不思議だ。

 覚悟はあるのに、夢の中のよう。

 歩み出すたびに足元が揺らぐような錯覚を覚える。



 けれど、ここで迷ってはいられない。 



 リュネットはそっと手を差し出し、水面に触れた。冷たい感触が指先を包み、波紋が静かに広がっていく。光が指先に絡みついたように見えたその瞬間。


 ──ぐらり。


 ──────な、に?


 掬い上げた水が黒く染まる。

 驚きを覚える前に、視界がゆがみ、ぐらりと脳が揺さぶられた感覚に、リュネットは抗うように目を閉じて──



 ぶつん。





---





 ──聖女の泉。

 それは、混沌の水面とも言われる。

 水を掬った状態のまま、抜け殻のように動かぬリュネットを視界の中心に、アナンはにやりとほほ笑むのである。



「──さて、どうなりますかねぇ。リュネット・サルペント聖女候補」








 一方その頃。

 セラフィア大聖堂近くの小料理屋では、クルードが険しい顔でグラスを握りしめていた。

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