24:売られた女は鮮やかにやり返す
「同胞たちよ! もう一度問います! この方々を領主夫妻として、税を納め敬えますか?」
「許せるわけがない……!」
その声は瞬く間に波紋のように広がり、罵声の嵐を引き起こすのだ。
「神を裏切った背信者が!」
「領を滅ぼす愚者どもめ!」
「恥を知れ!」
憤怒の声が波紋のように広がる中、広場はまるで嵐の前の海のごとく荒れ狂い始めた。その怒りは、裏切り者への失望と神への忠誠心が交錯し、一人一人の心を燃やしていく。
しかしそんな中で、青ざめたダルネスが、今もまだみじめに体裁を取り繕おうとしている。
「待ちたまえ! わ、私は領主だ!」
「ああ、今まではな。国王陛下から直々に、お前の処分については一任されている。……さあ。どうしてくれようか」
「ま、まってくださいいいいい!」
──それは、事実上の処刑宣告。
愕然と膝をつくダルネスの脇から、そっと逃げ出そうとするナルシアを、クルードは逃がさなかった。
「嫌だ! 嫌だぁ!」
「まってよ! あたしはかんけいない! かんけいないもん!」
「貴様もだ。ナルシア・ド・ローズ。神に背いた罰、その身をもって知るがいい」
身を切り裂くようなクルードの声。
真っ白になって崩れ落ちる子爵。
最後まで抵抗するナルシア。
──怒号と歓声が渦巻く広場で、リュネットは思った。
……ああ、これで終わった。
これで、終わったのだと。
◇
◇
混乱の中で飛び交った怒号も、彼らを断罪する言葉も、今では静寂の中に消え去っていた。
リュネットは広場の中央でひとり、薄暗く曇った空を見上げた。
「……終わった、やっと……」
緊張の糸がぷつりと切れたように零していた。
気づけば頬を伝う涙の感触。
手に触れた水滴に目を見張り、リュネットは痛烈に眉を寄せて膝をついた。
ああ、肩は小さく震えている。
視界がゆがむ。
瞼のふちが熱い。
誇り高く気丈であろうとしてきたが、今だけは何もかも忘れ、心が解き放たれた気分だった。
終わったのだ。
ダルネスのもとで虐げられる日常も、ナルシアの振る舞いに惨めを噛みしめる日々も。
ダルネスは今後、不貞と反逆の罪に問われ、裁きを受けるだろう。「競売に出された妻」であることは逃れられなかったが、混乱に乗じて買い手もつかなかった自分は、この後──どうしたら良いのだろう?
リュネットはそこで初めて気が付いた。
報復に心を燃やし、クルードと手を組み成し遂げたが、自分には何も残ってはいないことに。
サルペントを立て直すにしても、途方のない時間と金と労力が要る。婚姻と共に吸われたリュネットの私財は、「ダルネスのもの」として国に取り上げられてしまうだろう。
今の自分には、なにも──……
ああ、また視界がゆがむ。
鼻の奥が痛い。
もう、何に涙が出るのかわからない──
「……リュネット?」
ぐっと奥歯を噛みしめた時。
後ろから響いた声に息を呑み顔を上げた。
クルードの声に心臓が跳ね上がる。
瞬時、涙をぬぐい、気を律した。
──泣き顔など見られたくはない。
「──はい」
張った声で答えた。
音は少し震えていた。
足音が近づいてくる。
広場に残る冷たい風に目を細め、気づかれまいと努めて表情を整えるものの、肩の震えまでは止められない。
ああ、見られてしまうのだろうか。
こんな無防備な自分を。
そう思うと胸が苦しい。
しかし、そんなリュネットを揺さぶるように、彼の優しい声は、低く、ゆっくりと心を撫でた。
「……泣いているのか?」
「いいえ」
短く、けれどぎこちなく答えた。
するとクルードは、彼女の視界にゆっくりと現れると、一拍。すぐに視線を反らして、
「……そうか。雨でも降ったか」
淡々とした声。
ぎこちなく空を見上げる彼。
「体が冷える。」
──ふふ……
なんて不器用な気遣いなのかしら。
雨など降っていないのに。
風も吹いていないのに。
そんな気遣いが嬉しい。
彼の存在が心強い。
武骨な優しさに心が震える。
ああ、彼が伯爵でなければ、わたくしが「烙印付き」でなければ、この方の隣にいる未来もあったのかしら。
──そう、苦く甘く広がる痛みに、彼女が自嘲気味の笑みを浮かべた時。
そっと肩を抱かれてよろめいた。
遠慮がちな大きな手。
暖かく優しい温もりに、リュネットは一瞬目を閉じた。
心の奥から湧き上がる涙を飲み込む。
それを受け入れるかのように、彼は言うのである。
「おまえは、一人で全てを背負いすぎだ。だが、それができるおまえだからこそ、俺はこの手を放すつもりはない」
「……クルード様? それは……」
──それは、願っていた奇跡。
起こりえないと思い込んでいた夢。
揺れる声に応えるように、クルードの眼差しが返ってくる。
紺碧の瞳に宿るは、確固たる意志と、あたたかな色。
「禊を終えたら、婚約しよう。俺のそばで生きてほしい」
言われて、時が止まった。
瞳に映るクルードの表情は、今まで見たどの顔とも違う。
冷静で毅然とした伯爵ではなく、自分だけを見つめる、一人の男の顔。
こんなにも嬉しいことがあるかしら。
リュネットは唇にかすかな笑みを浮かべた。
涙に濡れた顔のまま、首を軽く傾け、冗談めかした口調で──言う。
「……ふふ、わたくし、売られた妻ですのよ?」
「構うものか。俺の心は、おまえのものだ」
◇
「禊を終えたら、婚約しよう」
その言葉が、彼女を更なる運命の渦へと導いたことを、ふたりはまだ知らなかった。




