1:売られる前にやり返す
「さあ! この私、ダルネスの女を買うものは居ないか!」
陽の下で大声を張り上げたのは、ダルネス・キルスティン。カルデウス王国プレニウス領の隣、僅かばかりの領地を治める子爵である。
堂々と妻を競りにかけているその男は、下品を絵にかいたような顔つきで周囲を煽ぎたてる。
そんな彼の隣。
青ざめた顔で立つのは妻リュネット・サルペント。この物語の主人公で、蛇能面と忌み嫌われた少女だ。
白銀の髪。
神秘を宿したような深き紫の瞳。
そこに宿るは諦めの色……ではなく、鋭い光。
ざわめく群衆。
集まる好奇の視線に、蔑みの眼差し。
沸き立つ熱気・耳に届く噂話。
まるで処刑台の上。
今まさに競売にかけられ、烙印を押されようとしている妻・リュネットが、どうしてこうなったのか──
──時間は、半年ほど遡る。
◇
リュネットがダルネス子爵と政略結婚を強いられたのは1年ほど前のこと。リュネットが16を迎えてすぐだった。
サルペント商会の影響力を背景に、ダルネスが婚姻を申し込んできた。
リュネットの両親は子爵の後ろ盾を大いに喜び、ダルネスもサルペントの販路を通じて事業を拡大できると、円満な政略婚だった。
しかし、それはダルネスの策略。
リュネットが完全に輿入れした直後から、ダルネスの態度は一変した。
彼女の両親の前で振りまいていた笑顔はかき消え、悪態をつくようになり、『魅力がない』と侮蔑するようになった。
その態度は日に日に酷くなり、元より愛などない婚姻に辟易としたが、リュネットは離れられなかった。
──この成婚はお父さまとお母さまのため。
ひいては、サルペント家のため。
冷たい・嫌い・愛されないなどというわがままで、家を滅ぼすわけにはいきません。
そう、叱咤しながらのある日。
ダルネスがサルペントの販路を掌握して間もなく、リュネットの両親が謎の事故に見舞われ、この世を去ったのである。
リュネットは悲しみと疑念に襲われた。
それは丁度、母から手紙をもらった直後の出来事であった。
[リュネット。
一度家に戻っていらっしゃい。
私たちは間違っていたのかもしれません]
そう、短く記された文に胸騒ぎを覚えたのに、何もできなかったと悔み涙した。しかしそんな彼女にダルネス子爵がかけた言葉は、
「はは、天罰だろうなァ」
なにが天罰か。
あなたが両親を殺したのではないか。
父と母に何をしたのですか。
──そう詰め寄りたかったが、彼女は17。
ダルネスは40前。
倍以上年の離れた男に、しかも子爵に立てつくなど、この時の彼女にはできなかった。
両親は亡くなり、領主不在となった土地がダルネスのものになるまで僅か8か月。あっという間の略奪である。
そしてそれからも、彼の冷遇は続いた。
「その薄笑いを向けるな、興が削がれる」
「ああ、なぜお前のような能面を迎えなければならなかったのか」
「本当に色気がない。蛇だ、蛇! 女らしい躰になってみろ」
「何を考えているかわからないのだよ! 見透かしたように笑うな! 気味が悪い!」
「お前のような女を悪女と云うのだろうな! 薄笑いの蛇め!」
そんな言葉を浴びせられ続け、彼女が覚えたのは演技の防御である。「そうですね、申し訳ありません」とほほ笑みやり過ごし、表面を取り繕う術を覚えた。
彼女を育てた親は神の元。
頼れる夫には虐げられて四面楚歌。
全てを奪われ何もなくなったリュネットに、ある日。
ダルネスはこう告げたのだ。
「リュネット、私には愛する人がいる。『お前をどうしてくれようか』」
それは暗に、リュネットに対する宣告だった。
『婚姻は神に誓う特別な儀』
カルデウス神への誓いは絶対で、よほどのことがない限り、一度結ばれた男女が離れることはできないのだが──
ひとつだけ抜け穴が存在している。
それは、女にとっては屈辱の最高峰。
半年に一度開かれる「命の市場」。
夫による「妻売り」である。
◇
カルデウス教:厳格な掟と制約に基づき、結婚を最も神聖な絆とみなす、この地の宗教。離婚も不貞も、神祖カルデウスの怒りを招く。
◇
「……わたくしが、『売られる』……?」
当てがわれた部屋の中。
リュネットはひとり、呆然と呟いた。
目の前がぐらつく。
視界の端から闇が広がるような感覚に、リュネットはくらりとよろめき、机に手をついた。
元よりダルネスとの婚姻が契約であることは百も承知、自分に興味など無いことも知っていた。
現に今まで、夫婦生活もない。『顔の動かぬ能面蛇のような女ではその気にならない』とまで言われ、男性のぬくもりを感じたことすらなかった。
妻としての役目を果たしているかと聞かれたら、否。しかし、売りに出すとは思わなかった。
ダルネスは子爵という立場のある身だし、妾は作っても追い出すまでしないだろうと読んでいたのに──……
父も、母も、土地も、両親と共に築いた販路も手にした途端これだなんて、いくらなんでも……
「……どうしましょう、このままではお父様とお母様に顔向けできません」
呆然と呟きつつも、彼女の脳は冷静に、「屈辱のその先」を弾く。
売られた妻の末路は、おおよそ三つ。
ひとつ、新しい夫に惚れられ、愛される。
ふたつ、体の関係付きの家事手伝いとして買われる。
みっつ、売れ残り娼婦の館に引き取られる。
いずれにしても、売りに出された事実は変わることなく、不名誉であることに変わりはない。
「……売られる……? このまま……? このまま……?」
格式高いテーブルの上、静まり返った燭台を見つめ呟くリュネットの声は、白く乾いていた。
脳裏に駆け巡るは父と母。
彼らを手伝い笑顔にあふれた日々。
子爵への輿入れが決まって、喜んでくれたあの日。
ぐらりと揺れる。
白めいた視界が闇に沈む。
冷静な自分が問いかける。
すべて奪われ、売られるのですかリュネット?
このままでいいのですか、リュネット?
しかし自分に何ができるのでしょう? 後ろ盾もなにもない、強力なツテもない。父と母の死の真相だって、疑念は有れど確証はない──……
「……奥様、大丈夫でしょうか?」
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