42話 揺らすベイビーインテンション
ヨハネたちに同行され、ハーロルトは三階のペトロがいる部屋の前に来た。
まずはヨハネが扉をノックし、中にいるペトロに呼び掛ける。
「ペトロ。いるよな? 僕たちは、ハーロルトを迎え入れることにした。中に入れてやってくれないか」
しかし、何も応答はない。物音も一切せず、中にいる気配も感じられない。
「ペトロくん。きみとも話したいんだ。入っていいかな」
ハーロルトも声を掛けてみるが、やはり返って来る声はない。予想はしていたが、ヨハネたちは憂心して顔を合わせた。
待ってみても何も反応がないので、ハーロルトはダメ元でドアノブに手を掛けた。すると、鍵が掛かっていなかった玄関が開いた。
「みんな。あとは、二人だけで話してもいいかな」
「わかった」
「ペトロ、入れてくれるのかな」
「無理だったら、上の空き部屋使うか?」
「でも大家さんからは、上の階の部屋の鍵は預かってない」
「ダメだったら、その時また考えよ」
ヨハネたちはハーロルトの検討を祈り、その場から去る。アンデレは親友を憂い、去るのをためらう。
「アンデレ。あとは、ペトロに任せよう」
「……はい」
四人は、下のリビングルームへ戻って行った。
玄関を入ったハーロルトは、室内に繋がる短いストロークの廊下に踏み入れた。離れていたのは一ヶ月ほどなのに、この部屋の匂いが不思議と懐かしく感じる。
そして、室内に続く木製のドアを開けようとしたが、施錠できるドアではないのに開かなかった。中にいるペトロがドアに体重を掛け、誰も入って来られないように封じていた。
「ペトロくん。そこにいるの?」
ドア一枚まで近付けたハーロルトは、もう一度声を掛ける。けれどまた、声は返って来ない。
……かと思った、数秒の沈黙のあと。ドアの向こうから、ペトロの声が聞こえてきた。
「……何で戻って来たんだよ」
ドア越しなのでクリアな声ではないが、声音に苛立ちを含め、湧き上がる戸惑いを混ぜ、そこにほんの僅かな切なさがこもっているように聞こえた。
ハーロルトはペトロの心情をできるだけ窺いながら、話し掛ける。
「突然戻って来て、驚かせちゃったよね。ごめん」
「……謝るの、それじゃないだろ」
苛立ちが見える声でペトロは言った。
「え? えっと。じゃあ……。事前に連絡しなくて、ごめん」
「違う」
「それじゃあ……。僕に期待してたのに、裏切って勝手に帰ってごめん」
「それもある。でも、違う」
「えーっと……。じゃあ。何を謝ればいいんだろう」
怒っているようなので、とにかく謝罪をと考えるが、何に対してペトロが苛立っているのかわからず戸惑う。
ハーロルトが何もわかっていないので、ペトロは自分から苛立っている理由を言う。
「お前が、戻って来たことだよ」
「……戻って来ちゃ、ダメだった?」
ペトロもやはりそうだったのかと、何となく予想していた通りだった。
ハーロルトの言い方が気に食わなかったペトロは、余計に苛立つ。それよりも何よりも、彼がここにいること自体が許せず、ドア越しに胸懐をぶつける。
「お前は、戻って来なくてもよかったんだよ。別に、お前がいなくても困らない。戦う気がないお前がいても、何の意味もないし。戦えないのに、軽い気持ちで戦闘の見学に来られても迷惑だし。他人事だと思ってるなら潔く他人になって、オレたちのことも悪魔のことも全部忘れろよ!」
怒りの言葉は、ヤコブと似ていた。けれどその怒りの種類は、全く別のものだ。
ヨハネが説得に行くと言った時、ペトロは戦力として迎えると言った。だが、今言った言葉は全て、その真逆の意思だ。
大切なものがなくなり、気持ちの整理が少しずつ付き始めていた。このまま新しい仲間が現れなくても、〈バンデ〉のいない戦闘を続けることになっても、痛みも、苦しみも、全て一人で抱えていくつもりだった。
それなのに。二度と戻らないはずのハーロルトが姿を見せ、固まり始めた決意が、卵の殻にヒビが入ったようにボロッと剥がれる音がした。封じ込めた願望も、冬が近付くに連れてまた厚い氷に覆われ始めていたのに、それが壊されるのが嫌でペトロはハーロルトを拒絶した。
けれどハーロルトは、ペトロのそんな決意も心の揺らぎも知らない。ただ、改めた自分の思いを聞いてほしくて、閉ざされたドアに向って話し続ける。
「そうだね。あの時はペトロくんに怪我をさせて、迷惑掛けちゃったもんね。今考えると、軽率だったと思う……。でも。あの経験があったから、僕は意識を改めることができたんだと思う。確かに戦闘は、見ているだけでも怖かった。敵を眼前にして身の毛がよだって、命の危険を初めて感じた。だけど、あの戦闘を見た僕は、恐怖だけじゃなくて、命を懸けて戦うことの意味を考えるようになったんだ」
相槌はしないが、ペトロは聞いているのだろうか。怒ってそっぽを向いていたとしても、聞いてくれていると信じてハーロルトは続ける。
「僕はずっと、きみたちは自分の命を犠牲にするのを厭わないんだと思ってた。でも、そんな覚悟で戦ってないって、ヨハネくんに怒られた。守るべき命は、自分が生き残らないと守れないって言われて、自分なんかが敵わないって決め付けてた僕は、やっぱり戦う資格はないんだって思った」
「だったら、今すぐ帰れよ。お前がいる場所は、ここじゃない」
ペトロはきっぱりと言い放った。突き放そうとした。それでもハーロルトは、思いを届けたかった。
「覚悟を決めてない僕は、まだここに来るべきじゃなかったのかもしれない。だけど、知るためには来なきゃわからなかったんだ。僕の宿命を。先祖の罪を償うには、僕はどういう覚悟でいなきゃならないのか」
ハーロルトの動機が話し終わり、夜の静けさが下りる。暖房の暖かさが届き難い廊下は冷気で寒かったが、ハーロルトはじっとその場に留まる。
すると。ペトロの方から尋ねられる。
「家族は? ちゃんと納得したのかよ」
その声から、苛立ちは薄れていた。
「父さんはずっと反対してたけど、母さんの説得もあって渋々って感じ。母さんと妹は、理解してくれたよ。二人はクアラデム家の宿命を知らないから、大学に復学するって言ってあるけど」
「せっかく再会できた家族に、嘘ついたのか。危険の中に、飛び込むかもしれないのに。親不孝者だな」
苛立ちは薄れていたが、家族に心配させた上に嘘をついたことには、怒っているようだ。
「そうだね。再会できたのにまた不安にさせる僕は、親不孝者だよ。だけどそれでも、宿命ともう一度向き合おうと思ったんだ。父さんみたいに、無責任に傍観者を貫きたくなかったから。だから戻って来たんだ。きみたちだけに、責任を背負わせないために」
正直、戦いに挑んだ先祖たちの記憶を思い出すと、ハーロルトは今でも吐き気がしそうになる。だが先祖たちも、必ずしも好んで戦いに挑んだわけではない。彼らには、世界を守るという強い責任感があった。
それは使徒も同様で、トラウマが甦るリスクを背負いながら、人々を守る責任感で恐怖に打ち勝ち、戦い続けている。彼らの戦いを見ていれば、自分も覚悟を決められるかもしれない。
きっとここに、自分が生まれ変われる可能性があるんだと、以前は微塵も抱かなかった希望を握り締め、ハーロルトはここに立っている。
「責任なんて、お前が増えたくらいで、一人あたりの負担は大して変わらない。お前がいなくても十分だ」
ドアを隔てているせいか、ペトロはまだハーロルトの思いを汲もうとしない。
「だけどペトロくんは、今は一人で戦ってるんじゃないの?」
「何言ってんの。オレには仲間が……」
「〈バンデ〉だよ。〈バンデ〉がいると、お互いの気持ちや痛みを共有できて、精神的負担が軽くなるんだよね。でもペトロくんには、今いない。だから、辛くないのかなって」
「お前に心配されるほど弱くない。お前よりは強いから」
「強くいる」と、再びそう決めた。そうだろう? と、ペトロは自分に問い掛ける。
「確かにそうだね。余計なお節介だったかな……。だけど。もしもその言葉が、強がりだったら……」
(だったら? 僕は、彼に何かしてあげたいのかな……)
もしも強がっているのなら、何ができるのだろう。まだ赤ん坊の決意で、力の扱い方すら知らない、現状ただのお荷物の自分に、強い意志を抱くペトロに、何かできるのだろうか。
その先が出て来ず、ハーロルトは言葉を詰まらせる。
「だったら、何だよ」
ドアの向こうから、ペトロが訊いてくる。お前がいることで、自分にどんな作用がもたらされるのか。赤ん坊に、何ができるのか。
尋ねられたハーロルトは、ありきたりな答えを返す。
「強がってるなら……。僕の背中くらいは、貸せると思う」
「背中くらいなら、ヨハネとかでもいいし」
「でも。みんな相棒がいるから、遠慮しちゃわない?」
「……でも。お前じゃ頼りない」
「あはは……」その通りだと、ハーロルトは空笑いする。
「それじゃあ。ペトロくんの印象が変わるように、頑張るよ。僕はもう逃げない。見て見ぬふりはしない。いつか、きみたちと戦えるようになるために、ここにいさせて」
「……その言葉、本当か?」
「信じてほしい。今は信じられなくても、仲間として認めるか見定めてほしい」
「帰るつもりは、本当にないのか」
ペトロは、今一度訊いた。
「うん。次帰ったら、父さんにすぐにでも就職させられそうだからね」
その最後の確認のあと、ペトロは再び沈黙した。また夜の静けさが下りてきて、ハーロルトは許しを待つように、彼の判断をじっと待った。少しの寒さも、気にならなかった。
沈黙があって二分ほど経つと、ガチャ、とドアが開いた。
そこには、俯きがちのペトロの姿があった。目はハーロルトに向けずに伏せ、その表情は、苛立ちはほとんど窺えないが、抑え込まれようとしている戸惑いと、そこにほんの僅かな切なさが混ざっているように見えた。
「……お帰りなんて、言わないから」
「うん。僕は、いるべき場所だと思ったところに、戻って来ただけだから」
ハーロルトは、暖かな部屋に一歩踏み入れた。
こうしてハーロルトは使徒の宿舎に再び住むことになり、ペトロとの同室生活も再開することとなった。




