35話 二つ目の太陽
朝八時の少し前。日曜日の今日は、朝の余計なルーティンがないので、ヨハネは日課のジョギングに出発した。
今朝の気温は、7℃。防寒ウエアを着て寒さ対策をし、白み始めた空の下を走る。まるで小さな雲のような白い息が、冷たい空気に現れては消えていく。
日課だからいつものように出て来たが、満足に寝られていないせいで欠伸が出る。
(あんまり調子よくないな……。今日は、いつものコースをショートカットするか)
いつもは、広い公園を一周するコースだが、今日は半周だけにすることにした。
公園に到着し、舗装された森の中のような道を走る。寒くなってきて、早朝に走る人も少なくなっていた。
「はっ……はあっ……」
身体と相談してペースを調整して走るヨハネだが、少し呼吸が乱れていた。そして、段差も何もないところで躓き、倒れそうになる。
「危ない!」
倒れ掛かったその身体を、誰かが後ろから腕を掴んで支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
「すみません。ありがとうございます……。あっ。キィナさん」
振り向いて顔を見ると、その人はキィナだった。
細い体付きのわりに、筋肉も付いている自分をよく支えられたなと思うヨハネ。ヨガインストラクターなのだから、ヨハネと同じくらい体感もしっかりしているのだ。
するとキィナは、ヨハネの顔を覗いてくる。
「な……なんですか?」
「ちょっとだけ、顔色悪くないですか? 今日の体調は?」
「万全とは言えないですね……」
「体調悪いのに、無理して走ったらダメですよ。少し休みましょう」
そう言われ、ヨハネはキィナに連れられ、すぐ側にある芝生で休息した。日の出とともに、空が朝日と白青のグラデーションになり始めている。
「風邪でも引かれたんですか?」
「いえ。ちょっと最近、寝不足が続いてて」
「夜更しですか? つい映画を観てしまったりとか」
「そうじゃないんですけど。夢見が悪い日が続いてるんです」
「悪夢を見るってことですか?」
「悪夢と言えば、悪夢ですかね……。嫌な思い出がある、過去の夢なので」
「それは……。トラウマか何かですか?」
「えっ……」
ヨハネは、言い当てられた驚きと動揺をキィナに向ける。
「あっ。誰かから聞いたわけではないんですよ。ただ、そうなのかなと……」
詳しく訊くつもりはないと、キィナは慌てて否定する。表情を見て、土足で踏み込んで来るような人ではないんだと安心したヨハネは、肯定だけしておくことにした。
「……はい。その通りです」
「そうなんですか……。ボクも以前は、毎晩のように見てましたよ」
「別れてしまった彼氏さんの?」
「約束通り二人でヨガスタジオをオープンさせたはずなのに、気付いたら部屋はもぬけの殻で、彼がいなくなっているとか。疑ったことを、すごく咎められるとか……。見たあとって、意外と辛いですよね」
過去に見た夢を思い起こし、キィナは微苦笑する。
「亡くなられたのは、確か去年ですよね。今もまだ、引き摺ってますか?」
「未練はまだ残ってますけど、もうそんなに引き摺ってはいません。今は、ヨガスタジオを長く続けられるように頑張りたいと思って、あの時の過ちは、あまり振り返らないようにしています」
「そうなんですね……」
(去年のことなのに、もう前向きになれてるのか)
ヨハネは膝を抱える。走って温まっていた体温が、少しずつ下がってきていた。
「同室のアンデレさんには、トラウマのことを相談しないんですか?」
「アンデレのこと、話しましたっけ?」
「ええ。前にスタジオに来られた時に、雑談の中で」
ヨハネは、名前を出しただろうかと目を左上に向ける。
だが、それは嘘だ。本当はアンデレの名前は、これまでの会話の中でヨハネから一切出していない。しかしヨハネは、きっと忘れているだけだろうと、全く疑問に思わなかった。
「仲間の方なんですよね。それなら、話を聞いてくれるんじゃないんですか?」
「あいつは、真面目な相談をするようなタイプじゃないんですよ。こっちが言ったことを、間違えた解釈するし。ちゃんと話を聞いてるのか、わからない時もあるし。何より、空気読まないし」
「ヨハネさんとは、だいぶ性格が違うみたいですね」
「そうなんですよ。僕はきっちりしたいのに、あいつは適当なタイプで。成人してるくせに、世話が焼けるんですよ」
「相性悪いと、ストレス溜まりませんか?」
「日々蓄積されてます。僕が寝不足なの知ってるのに、二度寝して起こさせるし」
アンデレは愚痴を吐かれているとも知らず、今頃は大きなクーヘンを完成させる夢でも見てまだ呑気に寝ているだろうと、ヨハネは幸せそうな寝顔を思い浮かべる。
「もしかして、うんざりしてます?」
「うんざりしてますよ。迷惑掛けるのは、もういい加減にしてほしいです」
溜め息をついて、苦労を覗かせるヨハネ。キィナにさり気なく、本心を明かすよう誘導されていることにも気付かずに。
そんなヨハネの背中に、キィナはそっと手を添える。
「仲間だからって、あまり我慢したり、無理な付き合いはしなくてもいいんじゃないんですか? アンデレさんにちゃんと自覚させるためにも、少し距離を置くのもいいと思います」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいんですけど。そういうわけにも、いかないんですよね……」
日々ストレスを積み重ねられ、いい加減にしてほしいと心の底から思っているのは事実。だが。アンデレが自分の〈バンデ〉であるという事実が、関係継続の有効条件として残っている。中途半端な繋がりでも、距離を置く選択肢はまだ考えていない。
空がだいぶ明るくなっていることに気付いたヨハネは、腕時計を見た。
「僕、そろそろ戻ります。すみません、キィナさん。ジョギングの時間の、邪魔をしてしまって」
ヨハネは、帰ろうと立ち上がった。キィナは、去ろうとした彼の手を掴んだ。
「キィナさん?」
「ボクは……。ボクだけは、味方でいさせてください」
青い瞳でヨハネを見上げ、願いを込めた思い遣りの言葉を伝えた。
太陽が、木々の向こうから昇ってきた。ヨハネの顔に陽光が射し、キィナの後頭部にも光が当たる。
冷たくなっていた手が、掴まれたことでやけに温かく感じた。




