85話 ヴィーダー・バイ・ディア4─隠れた憎しみ─
憎悪のバルトロマイの棺に、ヤコブは再び囚われた。周りは真っ暗で何もなく、彼一人だけだった。
「さあ。お前の懺悔は何だ」
暗闇にバルトロマイの問い掛けが響くと、トンネルから抜けるように視界が開けた。そこは、自宅の二階にある兄・デリックの部屋だった。
勉強机には参考書が立て掛けてあり、本棚には小説や自己啓発本や哲学の本と、ロックやポップスのCDが几帳面に並んでいる。壁には、好きなロックバンドのポスターも貼ってある。
風に吹かれる白いカーテンが、気持ち良さそうに揺れる。ベッドに腰掛けてギターで弾き語るデリックの演奏を聴く当時十歳のヤコブも、横に揺れている。その眼差しは、憧れを宿していた。
ヤコブは昔の二人の姿を懐かしく思うが、表情には陰が差し、淡々と当時の思いを語り始めた。
「俺は、兄貴が大好きだった。勉強ができて、ギターが弾けて、歌もうまいのが羨ましかった」
仲睦まじい兄弟の動きが止まると、フィルム映像のように場面が変わった。
今度は、公園にやって来た。汗ばむような陽気の休日で、遊びに来た人々の賑やかな声の中、集まったデリックたちは木陰に腰を下ろして輪を作り、演奏の練習をしている。少年のヤコブは、その輪の外で興味津々に、そしてどこか心寂しそうな目で見ていた。
「バンドに誘われた兄貴は、毎日が楽しそうで。それを見てると、俺まで楽しかった。だけど。仲間に入れないのは、少し寂しかった」
デリックたちの演奏がピタリと止まり、公園の賑やかな声が消えると、またフィルムが回り場面が変わる。
次の場所は、暗くて狭い屋内だ。公園の賑やかさの何倍もの声量で盛り上がる、熱気に満ちたライブハウスの中だ。客席の照明が全て落とされ、ステージ上にライブハウスのエネルギーが全て集中するように照明が注がれている。
ステージに立って演奏をしているのは、デリックたちだ。ボーカルのデリックがセンターでギターを弾きながら歌い、その横にはアレンの姿もある。照明は白、黄色、赤と交互に明滅し、演奏を盛り上げる。観客たちも、リズムに乗ってジャンプしながら手を挙げ、歓声を上げて楽しんでいる。
その聴衆の一番後ろで、両親と一緒に演奏を聴きに来た少年ヤコブもいた。
「バンドはかっこよくて、そのど真ん中でライトを浴びてギター弾きながら歌ってる兄貴は、一番かっこよかった。俺も、親父もおふくろも、会場にいるみんなが夢中になってた」
ステージを見つめる現在のヤコブの瞳にも、黄色や赤の照明が映る。ライブハウスに来たことももちろん覚えているが、その時の興奮は、今は凪のように静かだ。
デリックの演奏と歌唱に聴き惚れている少年ヤコブの側に、影から浮き出るようにバルトロマイが現れた。彼は現在のヤコブではなく、少年ヤコブに尋ねる。
「兄が好きか?」
「うん。大好き! ギター弾きながら歌ってるところがかっこいい!」
少年ヤコブは、バルトロマイの存在を微塵も不審に思っていなかった。全身が黒尽くめで目立たないからか、怪し気な長髪の男が次男坊に話し掛けていても、両親は全く気付いていない。
「だが。お前と兄は兄弟では有るが、違う関係になり始めて居る」
「兄貴は、俺の兄貴なのは変わらないよ」
「果たしてそうか? 今の構図を、俯瞰して見ると良い」
「俯瞰して?」
この男の人は何を言っているんだろう? という目で、少年ヤコブはバルトロマイを見上げた。
「お前は客で、兄は演者だ。今迄は兄弟と言う関係性のみだったが、時を経て、見せる者と見る者となった」
「だから何?」
「分からぬか。お前と兄の間には、目に見えぬ隔たりが生まれたのだ」
「隔たり……」
「新たな道を見付けた実兄は、此処から、お前と歩いていた道から逸れて行く。そして、お前の事もやがて忘れて行く」
「兄貴が、俺を忘れる……」
デリックたちのライブは、最高潮の盛り上がりを迎えていた。エフェクターを通ってアンプから放出される、ギターの爆音。華やかな主役を引き立て支えるベース。華麗なスティックと足捌きで鳴らされる、ドラムとシンバル。リズミカルに切り替わる照明。観客の歓声も合わさり、会場には一体感が生まれていた。だが少年ヤコブには、バルトロマイの言葉がこの中で一際輪郭を持っていた。
「そんなはずない。お前が言ってることはデタラメだ」
「そう思いたいだけだろう。自分自身も、同じ様に思っていたのだから」
「そんなことないよ」
「あの自身の言動を、忘れた訳では無いだろう」
バルトロマイがそう言うとまたも場面が変わり、自宅のリビングになった。十二歳のヤコブが、オーディションへ行くために前乗りするデリックに駄々を捏ねているところだった。
「お前は、実兄が自分から離れるのを嫌忌した。実兄の意識が別に向くのが、納得行かなかった。実兄に構われなくなるのが、腹立たしかった。応援すると口では言ったが、本心は応援などしていなかった」
「俺は本当に兄貴を応援してた。それは自信を持って断言できる!」
ヤコブは力強く否定した。バルトロマイはその言葉の真偽を見定めるように、紅桔梗色の双眸を細める。
「お前は何故、自身の気持ちに自信を持てる。お前の其れは欺瞞だ。“あれ”が、其れを証明しているではないか」
再び場面は変わるが、場所は同じく実家だ。カーテンが締め切られて薄暗い、ヤコブの自室だった。マンガばかりの本棚や、床には置きっ放しにされたゲーム機。カーテンの隙間から微かに差す夕暮れ時の日差しは、届ききれていない。
少年ヤコブは、教科書とマンガが乱雑に積まれた勉強机で、パソコンを開き何かを打ち込んでいる。
「『AJDAには、簡単に人を傷付ける最低なやつがメンバーにいる』……。『AJDAの歌なんか聴く価値はない』……。『AJDAは、本当は他人が曲を作って他人が歌ってる』……。『オーディションにAJDAを通すな! みんなは本当のやつらを知らない!』……」
するとそこへ、部屋のドアをノックして父親が入って来た。
「ヤコブ、今いいか? ……お前、何をやってるんだ?」
「俺との約束を破った、兄貴への罰だよ!」
少年ヤコブは最後の一文を打ち込むと、SNSへの投稿を完了した。投稿画面に表示されたその文言を読んだ父親は、瞬く間に色をなし、奸悪な行いをした右手を鷲掴みしてキーボードから離した。
「やめなさい!」
しかし少年ヤコブは、父親に怒られているのもわからず、治まっていない癇癪で不満をぶちまける。
「だって、兄貴が悪いんだ! アレンも何で兄貴をバンドに誘ったんだよ! みんな酷いよ! オーディションなんて落ちればいいんだ! 受けられなくなればいいんだ!」
「やめなさい、ヤコブ! デリックは何も悪くないだろう!」
「兄貴は約束を破った悪いやつだ! 俺よりも大切なものを作るなんて最低だ!」
「ヤコブ!」
父親は眦を吊り上げ、少年ヤコブの頬を叩いた。そして掴んでいた右手を勢いよく引き、パソコンから引き剥がした。
「投稿したものは全部消すぞ。全く。何てことをしてくれたんだ」
父親は、少年ヤコブが投稿したメッセージを削除していく。しかし、投稿は既に拡散され始めていた。
叩かれた子供ヤコブは左の頬を赤くしながら、恨めしそうに父親を見つめる。
「父さんも母さんもみんな兄貴に味方して。俺なんかどうでもいいのかよ」
「そんなことは言っていないだろう。あのな、ヤコブ……」
打たれた頬が腫れ、ジンジンと疼いた。
少年ヤコブは聞く耳を持たず、心から漏れてくる不満を次々と口にする。
「そうだよな。兄貴は俺よりも勉強できて、友達も多いし、優しいし、人気者だもん。それに、俺にはない才能もあるし」
「ヤコブ。話を聞きなさい」
「今さら、兄貴と俺の差を教えなくてもわかってるよ。父さんと母さんは、俺よりも兄貴が大好きだもんな!」
「確かに、デリックの将来には期待を寄せているが。お前のことをどうでもいいなんて考えたことは、一度もないぞ」
「俺のことは打つのに」
父親の対処が大いに不服な少年ヤコブは、デリックとの扱いの違いに不平を鳴らす。けれど、父親は呆れるばかりで、単なる子供の不貞腐れだとしか捉えない。
「お前が、言うことを聞かないからだろう。本当に手が掛かる子だ。いい加減に、我儘をもう少し堪えられるようになりなさい。そのまま世間に出すんだと思うと、オレも母さんも頭が痛くなりそうだ」
心の中に仕舞っておいたであろう本心も漏らした父親は、部屋に来た要件も済まさずに出て行った。
少年ヤコブは下唇を噛み、拳の中に蟠る感情を握り、父親への憤りを露にする。
バルトロマイは、彼に再び近付いた。
「お前はそもそも、両親が兄ばかりを可愛がっている事が不満だった。故に、兄からの愛を感じて気を紛らわせる事で、両親への憎しみを忘れようとしていた。しかし、愛してくれていた兄はお前を裏切り、応援と言う見返りを求めた。其れは余りにも理不尽だと憤慨し、兄を貶める工作をしたが、其れを発見した父親から本音を聞き、家族内で自分だけが浮いているのだと目の当たりにされた」
バルトロマイは、少年ヤコブの肩にグローブを嵌めた手を置いた。それは、塞いでいた秘密の蓋を開かせた。
「やっぱり、俺は二番目なんだ。生まれたのも二番目。優先順位も二番目。父さんと母さんから愛されるのも二番目。一番目は全部、兄貴が持ってく。俺だって一番目になりたいのに。一番になって褒められたいのに」
少年ヤコブは、誰も聞いてくれず溜め込んでいた本心を吐き出した。
トラウマの発端となった出来事の一部始終を俯瞰で見た現在のヤコブは、過去の自分の気持ちを思い出した。
悔しさと悲しみと怒りがひっくるめられて不満の塊となり、息を詰まらせないために吐き出しただけだった。しかし、軽弾みな行動は、両親に思いを届かせるには至らなかった。そしてまた、不満が息を詰まらせた。
秘密の蓋が開いたことで当時のやるせない思いが甦ったヤコブは、憤懣を顔に浮かべて漏らし始めた。
「そうだ。どんなに頑張っても、俺は一番にはなれなかった。でも、頑張ればそのぶん褒められると思って頑張った。だけど、空回りしたりうまく結果が出なくて、頑張れば頑張るだけ無駄だった。その時に必ず親から言われたのは、『一番はデリックがいる。だからお前は一番を目指さなくてもいい』……。それを言われる度に悔しかった。比較されるのは仕方ないってわかってても、どうしても、比べられるのが兄貴なのが嫌だった」
「故にお前は、比較対象とされた実兄の存在が疎ましく、邪魔だった。期待されぬ口惜しさを、両親ではなく一番近い実兄に向ける事で、憎しみを手に取る様に感じる事を望んだ。そして其の憎しみを育て、返す時を何時か何時かと待ち望んだ」
「俺は、兄貴が好きだった。でも。勉強ができて、ギターが弾けて、歌もうまいのが妬ましかった。だから約束を破られて、裏切られて、今が溜め込んでた感情を返す時だって思った」
それは、本当にヤコブの本心なのだろうか。だが、その茶色い眼差しには、本物の憎しみが込められていた。
「それがお前の本心か。ヤコブ」
そこにはいない人物の声が聞こえると、場所は墓地へと変わった。緑の木々に囲まれた広い芝生の敷地に整然と墓石が並び、植えられた生花が曇天の下に色を添えている。
「兄貴!」
ヤコブは、墓石を挟んで立っているデリックに気付き、ハッと我に返った。デリックは、白と黄色のラナンキュラスの花束を持っていた。
「覚えてるか。初めてのライブの時、お前がお祝いでくれた花束だ」
「お小遣いで買ったやつだ。覚えてるよ」
「この花束みたいに、オレはお前にいろんなものを捧げてきた。それを全て仇で突き返されて、オレは身体も心も傷だらけになった」
デリックは花束を胸の前で持ち、ヤコブに近付いて来る。
「兄貴。さっきのは違うんだ。俺の本心なんかじゃ……」
ヤコブは誤解がないようにと、先程の発言を弁明したかった。けれど、デリックは聞こうとしてくれなかった。
「突き返されたけど、もう一度お前に捧げるよ。ヤコブ。最後のプレゼントだ」
ヤコブの目の前まで来たデリックは、花束とともにもう一つ持っていたものを差し出した。その瞬間、ヤコブは自分の腹部に違和感を持った。
「……え?」
デリックが下がり、花束が手放されると、違和感の正体はすぐに目に入った。
「復讐という名前の、な」
ヤコブの腹部に、ナイフが刺さっていた。傷口から溢れ出てくる血が服に滲み、痛みを伴って広がっていく。
鮮血はナイフを伝って、花束の花弁に滴り落ちた。




