第2話 渡来してきた女
漆喰の倉庫が並ぶ港を抜け、広い町通りに出ていた。
海の匂いがする潮風。張り付くような湿度のためか、シェーシャは往来の真ん中で足を止め、吹き出る汗を手の甲で拭いながら小さく息を吐く。
港町と聞き、大陸の商業都市〈ワジ〉に似た町を想像・期待していたのもあり、活気のあるこの町も、どこか辺鄙なものに感じてしまう。
(ま、ワジを基準にしたら、どこも田舎港になっちゃうけど)
道は人の行き来が多い。立ち止まっている女を迷惑そうに睨むも、その顔を拝んだ途端、誰もが「おっ」と声をあげ、「眼福、眼福」と締まりのない表情に変える。
言葉が通じていないと思っているのだろう。中には「こんな別嬪さんと一夜を共に出来りゃあなあ」と、垂涎を洩らす者までいた。
(【東の国は独自的な文化を持つ。非効率を美徳とし、とにかく変化を嫌う】――エルフの調査書にあった通りね。まあ八十年前のだし、それっぽっちで文化なんて変わるはずないけど)
歩きながら、町や人の装いを観察していた。
大陸のチュニックシャツを着たのもいるが、それに向けられる視線からして、伝統を是とする排外的な面が推察される。独自的な文化は、言わばその延長によって出来たものか。
シェーシャは再び歩を進めた。
人間よりも高温多湿の気候・風土が厄介だ。
馬に乗らなければ、荷車に人を乗せることすらしないようで、それによって人でごった返すさまは、見ているだけでも暑苦しい。
【風よ。旋風となりて、薙ぎ払え】
【水よ。凍てつく氷となりて、風と共に舞え】
自身が編み出したスキル〈二重詠唱〉。
本来はダイアモンドダストのような、氷粒の嵐を発生させる魔法なのだが、
「あー……快適ー……」
効力を弱めれば、身体を包む冷風のスーツとなる。
自堕落と怠惰が生んだ“進歩”だった。
(さて、これからどうするかが最大の問題ね。こうも大陸と文化が違うとは思わなかったし、プランを練り直さなきゃ)
町は小さく、気づけば海が覗く松林の街道に出ていた。
庶民・商人、帯刀している者を見たシェーシャの頭に、ある人物の名が浮かぶ。
(やっぱり、神楽を頼るべきだったかしら。うーん……)
腕を組みながら、適当に選んだ道を歩く。
その果てとなる場所にくると、朱塗りの門が迎える町があった。
「あら。ここは結構よさそうね」
門から中を、しげしげと覗き込む。
道幅が広く、中央には石蓋がされた排水路が走る。その道の両脇に、朱色の欄干や格子窓を設けた、黒く絢爛な建物。それぞれ格式を競い合うように、建ち連なっている。
当面の宿はここでよさそう。
門衛と思わしき男が呼び止めるも、シェーシャは手をひらひら「案内はいいわ」と聞かず、足を前に進めた。
大陸に比べると味気ないが、先の港町に比べると遙かにマシな建ち構えだ。また中心部に向かうにつれ、町並みは鮮やかさよりも慎ましさが増してゆく。
(おもむき、と言うのかしらね。通りを歩くのは男ばかりだけど)
思ってすぐ、「ああ」と頭が答えを出した。
(神楽が『女子も男と並んで歩くのですね』って驚いてたっけ)
しばらく町をうろうろ。
石を積んだ用水路、風に揺れる柳の葉擦れに目を細め。二往復ほどしたのち、その途中で見つけた緋毛氈が敷かれた床机に腰掛け、休憩していると、
「――ちょっとアンタ」
店の者と思われる女が、下駄を鳴らしながら近づいてきた。
「ウチに何の用だい」
「ああ、そうね。冷たい飲み物をもらえるかしら」
女の眉が上がった。「ここがどこか知らないのかい」
「あら? ここはお茶屋ではないのかしら?」
「……ッ、異人が物見遊山でこられちゃ、ウチの商売あがったりなんだよッ! 客でも身売りでもないなら、ここから失せなッ!」
「身売り?」
それを聞いてシェーシャは、ああ、と理解した。
女の大声に立ち止まった人の合間の、朱塗りの格子窓から、憎々しげに扇子を噛む女たちの姿が。――顔に白粉をまぶし、唇には真っ赤な紅を差し、それと同じ色をした艶やかな薄衣。目の前で睨みつける女もまた同じく、己の美貌が、彼女らの嫉妬を買ったようだ。
ついでに喧嘩も買う。シェーシャは女の顔を検め、ふっと鼻で笑った。
「ごめんなさいね。私がいると貴女、色あせちゃうわね」
「なッ……」
白く塗られた顔が、みるみる赤く染まるのが分かる。
これには向かい店から覗いていた女も、くくっ、と笑った。
「今のうちに咲いておきなさいな。三年もすれば、道端の雑草花にも劣るから」
椅子から腰を上げたシェーシャに、女は「待ちなッ」と声を荒げた。
「下手に出てりゃいい気になりやがって! ちょっと痛い目に遭わないと分からないようだね! 浦霞のお駒の恐ろしさを、その綺麗なお顔に教えてやるよ!」
女が目を向けた間口には、店の若い衆がずらり。
一人が縄を持つ以外、全員が素手。ニヤつくその表情から、所詮は威勢だけだと高をくくっているらしい。
(やれやれ、騒動は起こしたくないのだけどね)
シェーシャは小さく首を振り。
そして手にしている黒杖をかざした、その瞬間――
『おや、今回は殴り合わぬのか?』
頭上から茶化すような声がし、その場にいた者たちは顔を上げた。
「一年、いやそれ以上か、エルフの大将」
その姿を認めたシェーシャは、あっ、と目を大きく瞠った。
同時に、正面の女も同じ声をあげていた。
「あんた、狼族の……ッ!?」
「白牙の旦那……ッ!」
ざわめく野次馬たち。
赤い剣菱に深緑の袴、朱色の欄干に肘を乗せた犬頭――それは、かつての〈模擬戦〉にて、共に剣を並べた〈白牙〉だったのである。
白牙は盃を掲げたまま、眼下の遊女に目を向けた。
「お駒、そいつは相手が悪い。退け」
「ッ、し、しかし旦那……ッ、このままではウチのメンツが……ッ」
「その異人と揉めると面倒なことになる。犬も食わぬ喧嘩であるが、わしに預からせてくれ」
ぐ、と喉を鳴らし、お駒と呼ばれた遊女は一歩下がる。
それを見て白牙は、ひらり、朱の欄干を飛び越え、地に降り立った。
「貸し一つだ、森の友よ」
「狼族はお節介だって聞いていたけど、その通りのようね」
うぉん、と白牙は嬉しそうにひと吼え。
「今一度、女同士の殴り合いも観たいがな。ここで異人が揉めると少し面倒なので、邪魔をさせてもらうことにした」
ふうん、とシェーシャは鼻を鳴らしながら、散ってゆく野次馬を眺める。
「ま、知った顔に会えてよかったわ。右も左も分からなくて困ってたの」
「おや? お嬢の夫に会いにきたのではないのか」
「誰が、って言いたいけど……どうやら頼るしかなさそうね」
「ならば駕籠を手配してやろう」
不本意ではあるが、少し見通しが甘かったらしい。
森に住まう同胞の友の言葉に頷き、翻るその背を追った。
◇
そこは、港町から遠く離れていた。
狼族がかつぐ駕籠に乗ること半日。彼らは足の速さもさることながら、無尽蔵のスタミナをもつため、馬で走れば三日はかかるであろう道のりも、あっという間だった。
……が、駕籠の乗り心地は最悪だ。
忍の郷の手前にあると言う竹山に入ると、シェーシャはそこから歩くと言い出し、駕籠者が止めるのを振り切って暗い闇に身を投じた。
「エルフの結界でもあるのかと思ったけれど、所詮は人間の住み処よ。なんてことないじゃない」
陽がすっかり落ち、暗闇と静寂に包まれた竹林を歩く。
頭上には〈照明〉の魔法による光球が浮かび、一帯を白く照らす。
見えるのは無秩序に生える青竹に、枯れ落ちた葉の絨毯のみ。さくさくと踏みしめる奏でが心地良い。
だが、その時――
「――!」
シェーシャは突然、杖を構え、勢いもって振り返った。
しかしそこには何もない。息を詰めて構え続けたものの、藍夜と白光のグラデーションに見えるは、落ちてゆく一枚の青い竹の葉のみ。
気配を感じたような……。
ふうと息を吐き、手の甲で額の汗を拭った。
(やっぱり、少し神経質すぎるかしら)
背後への警戒心は日増しに強く。
正直なところ、自身でも疲れを感じるほどである。
(まったく……あのクソ忍者のせいで、私の人生は踏んだり蹴ったりよ。背後を振り返り続けるせいで、自意識過剰な女って嫉妬を買っちゃうし)
杖を下ろし、再び歩み始める。
(ファファもファファよ。聖職者ならもっとマシな助言あるでしょ。何が『YOU、そう言う関係になっちゃいなよ』よ、馬鹿じゃないの!)
葉を踏む音が乱暴なものに。
彼女の背後には長く伸びた影が一つあるのだが、
「だけど、あとどれくらいかしら」
影が時おり波打っていることに。足を止めるや影が膨れ上がり、加えて、その先端が尖っていることにも気づいておらず、
「狼族から聞いた方角は間違ってないはずだけど。トーチをもうちょっと上に――」
竹林にシェーシャの絶叫が木霊したのは、浮かぶ光球を見上げた、その直後のことである。




