第一話 『赤毛のアンジー』
お待たせしました。
第二章完結まで、毎日18時更新の予定で予約掲載にしてあります。
だいたい一話五千字程度にまとめてあります。
では、お楽しみいただければ幸いです。
それは獰猛で、恐ろしく足が速く、ひどく興奮していた。
足を止める余裕はない。
肩に担いだ荷物のせいで、今は振り返ることも難しい。
背後から聞こえるモンスターの足音は囂々と大地を揺らし、視界の片隅に見える土煙で余計な焦りが生まれる。
たかがイノシシと侮るなかれ。
確かに知能はそれほどでもないと思われるが、魔物らしく身体と牙は普通のイノシシより巨大で、低い重心のまま百キロ以上の巨体が突進してくる。
印象としては、スペインの闘牛を想像してくれれば分かりやすい。
少女の赤毛が布の代わりか。
この娘の髪の色は、一度目にしたら忘れられないくらい、目の醒めるような鮮やかな真っ赤だった。
そこに目がけて、闘牛ならぬ魔猪が、一匹ではなく数十匹という単位で、猪突猛進という言葉通りに、ひたすら直進で突っ込んでくる。
ここがだだっ広い荒野でさえ無ければ、闘牛士よろしく紙一重で躱すことも、隠れてやり過ごすことも出来ただろう。
あるいは俺がこの荷物を拾わなかったり、投げ捨てていれば、こんな苦労はせずに済んだに違いない。
「離して! はーなーしーてーよー!」
肩の上で暴れる荷物は意識を取り戻すと、この忙しいときに大声で喚いてくれた。
幼さの残った声ながら、からっとした荒野の空気によく響く。
気の強そうな高音に耳がキンキンするが、逃げ道を探しながら言い返す。
「やかましい! 大人しくしてろ!」
「わたし、戻るの! 馬車に戻るの!」
「そんな暇あるか!」
状況を弁えない叫び声に、自然と俺の言葉も荒くなる。
ふんわりとして鮮烈な赤毛が特徴の、およそ十歳くらいの女の子である。
顔立ちこそ将来が期待出来そうな美少女だが、衣服は街で良く見る町娘らしい野暮ったさ。
地味な色のロングスカートが風に巻かれて、ばたつく足に絡みつく。
背後から迫り来るのは、凶悪なイノシシ型モンスターである。
スピカと俺の力を以てすれば、蹴散らすこと容易い。
「でも、パパがまだ!」
「狙われてるのはお前だ! 理由に心当たりは!」
俺の大声に、少女は少しだけ頭が冷えたようだ。
表情からすると、イノシシに集中的に狙われる原因は本人にも分かっていない。
誰にとっても異常事態であることは間違いなかった。
「だ、だったら置いていけばいいじゃない!」
「んなことは聞いてないし、ここに置いてったら本当に死ぬぞ!」
脅しでも何でもなく事実だった。
昔に比べて考えられないほど頑丈になったつもりの俺ですら、あの凄まじい突進を正面から受けたら耐えられる気がしない。
どう見ても普通の女の子に過ぎない彼女では、イノシシの一踏みで即死だろう。
「で、でも! このままじゃ! あなたも死んじゃう! 死んじゃうよおっ!」
少女は悲痛な声を挙げた。年齢ゆえの声の幼さに反し、言葉はひどく明瞭だった。
それは俺を気遣う声で、きっと優しい子なのだと感じた。
見た目で言えば十歳かそこらだ。
思ったことを素直に口に出す性格なのか。
俺が安心しろと言うより早く、
「もう少しです!」
「な、なに今の声」
タイミングを計っていたスピカが声を挙げた。
前方には目星を付けていた場所、その岩陰が見えていた。
あと少し。
駆け抜けた先に見出した巨岩を利用して、速度と距離の差を拡げる。
たった一瞬でいい。
それだけでこの悪い流れをひっくり返せるのだ。
少女が黙り込んだタイミングを見計らい、ギリギリまで残しておいた力を振り絞って速度を上げて巨岩の影へと飛び込んだ。
姿を見失った魔猪の大群はいきり立ち、立ち塞がる巨大な岩にぶつかることを恐れないかのように、一切の減速すらなく突進をしてきた。
足を止めないままに、俺は身体を捻り、岩間の横から飛び出してきた先頭魔猪を引っかけるようにして、手のひらを向けた。
「愚かなる風よ。狂い舞い落ちる枯葉がごとく、震える悲鳴を我に届けよ。《招疾雷》」
雷撃の乱舞が降り注いだ。
分厚い毛皮に覆われたイノシシの魔物、その大群は、強烈な雷の魔法に身体を貫かれた。
俺のではない。今のは巨岩の上からだった。
魔猪を捉えたのは、俺が使う予定だったのと同じ雷系統の攻撃魔法だ。しかし目論見とは違う結果になった。
「ふっ、そこの二人! 困ってたみたいだから助けてあげたわよ!」
よく通る声だった。
堂々として、澄んでいて、そして美しい少女の声だ。その可愛らしい声のなかに隠しきれない、称賛を待つ自慢げな響きを聞いた。
滑舌の良さも相まって、声だけで容姿と表情が想像できるほどである。
彼女はきっと、笑みを浮かべている。
そして俺たちに声をかけつつも、モンスター相手に気を抜いている風でもない。
再びの詠唱が始まった。
継ぎ目無く流れるような魔法の行使で二発目、三発目が放たれると、すべての魔猪はその肉体を四散させた。
二度目の雷撃が当たった時点で大半が即死していただろうに、念入りにトドメを刺したのだ。
死して肉体を失った魔猪は、その大群に相応しい量の銀貨をその場に残した。
彼女は魔法使いだ。それも一流の。
だからこそ、本当にわずかな時間で魔物の群れを全滅させてしまった。
「そう、あたしの名は――」
「スピカ!」
「最悪です! 逃げましょう!」
「えっ?」
思っていた反応と違ったのか、岩場の上で困惑の声があがった。
余力を使い果たしたばかりの俺だったが、なんとか気力で奮い立ち、遠くへ向かって走り続けた。
少しでも浮遊マナの影響を受けない場所に逃げる必要があった。
担いだままの少女が、息苦しそうにしていた。
この距離でも、多少ながら身体に蓄積するらしい。
危険だった。
「ちょ、ちょっと! どうして行っちゃうのよ! なんでよーっ!?」
「お前も危ないぞ! マナ中毒に気をつけろ!」
一応、岩場の上にいる魔法使いの彼女にも声をかけた。
すでに浮遊マナが周囲に充満しているはずなのだが、逆光に目を細めつつ一瞬だけ覗いた顔に危機感は見当たらなかった。
「あの魔力量なら無事でしょう! それより今は!」
「大丈夫か!」
「……うう……」
少女に声をかけながら、俺とスピカは、壊された馬車まで戻ることにした。
十分な距離を取れたことを確認し、途中で徒歩に切り替えた。岩の上にいた魔法使いが追ってくることはなかった。
しばらく歩くうちに少女の顔色が少しずつ良くなっていた。
いつまでも担いでいるのも何だからと、ちゃんと背負った。
すると、わずかに動こうとした気配があった。
「それはマナ中毒だ。無理に喋らなくていいから、しばらく背負われてろ」
さっきの大声が嘘のように静かだった。
意識を失ったわけではないらしく、俺の方のあたりに頭を乗せたような感じがした。
了承と受け止めて、そのまま歩き続ける。
「あの娘、どうやってあの岩の上に昇ったんでしょうね」
落ち着いたところで、スピカが言った。
「そもそも、なんであんな岩の上にいたんだ?」
「ワタシたちが追われているのを見て、助けるために先回りしたとか」
「助けてくれようとした、んだよな」
「……おそらくは」
首を傾げる俺たちだった。
謎の魔法使いのことは一端忘れ、遠ざかってしまった街道へと戻った。
このあたり、実のところモンスターと出くわす頻度はさほど多くない。
旅立ってから街道沿いにあった寒村に何度か寄ったが、そこは畑がゴブリン避けの小さな柵で覆われているくらいだった。
あの魔猪の大群を除いては、ここ数日ゴブリンの気配すら感じなかった。
一方でただの動物、たとえばウサギであるとか、魔物ではない普通のイノシシなどはよく見かけた。
こちらは危険は少ないし、上手くいけば食料になる。
「あ、あの。そろそろ降ろしてもらえると……その、もう大丈夫だから!」
声を出し、自分の足で歩ける程度には回復したらしい。
丁寧に地面に降ろすと、すぐさま彼女は深々とお辞儀をして、俺に対して御礼の言葉を口にした。
「ふう……先ほど大変な失礼を申し上げました。改めて、私の名はアンジェリカ=エメルデア。エメルデア家に連なる血ではありますが、爵位を預からぬ娘にございます。助けていただいたこと、ここに感謝いたします。ありがとうございました」
整えた口調に、お澄まし顔。
今見せた振る舞いは別人のようで、見事なまでに淑女のそれであった。
最初の意気込むような吐息が無ければ完璧だった。
頭を上げるときに赤い髪がふわりと浮いた。
「陰山陽介だ」
「カゲヤマ様。……その、家名をお持ちということは、もしかして」
俺が名乗った瞬間、素の表情が覗いた。
十歳くらいの女の子らしい顔つきが、素直に出てしまった様子だ。
取り繕うまでに要した時間は一秒足らずで、変わりように驚いて表情を凝視していなければ気づかなかったほどわずかな変化だった。
「貴族じゃない。他の国から来たってことで納得してくれ」
「なるほど。それで、その、カゲヤマ様?」
「元の場所までは送るから安心しろ。荷物もあそこに置きっぱなしだし。あと、猫を被っても今更だ。いっそ呼び方も好きにしてくれ」
「……だよね。さっき散々しゃべっちゃったもんね。まあ、正式に感謝を伝える場合はあれくらいした方がいいかなって思ったんだけど」
アンジェリカは、露骨に胸をなで下ろした。
いつもの威圧感も出ているはずだが、俺に対して脅えた様子は見当たらない。
いや、最初に騒いでいたのはそのせいかもしれない。
もう慣れたとしたら随分と適応が早い。
「わたしもアンジーでいいよ。そっちはヨースケって呼ぶね?」
来た道を戻る最中、アンジーととりとめもなく話した。
「さっきの魔法使いさん、ヨースケの知り合いじゃないよね」
「赤の他人だな」
「だよね。もしどこかでまた会えたら教えて」
「あーっと、俺が言うことじゃないかもしれないが……たぶん、わざとじゃないからあまり責めないでやってくれ」
状況を鑑みるに、マナ中毒の危険まで考慮して助けに入るのは無理だろう。
見知らぬ相手だが、ああして魔猪を全滅させたのが善意だったことは疑いようもない。
俺のフォローに、アンジーは手をぱたぱたと振った。
この短時間に二度も死の危険をくぐり抜けたとは思えないほど、あっさりとした笑顔だった。
「あ、いや、お礼を言いたいだけなんだけど」
「……分かった。もし見かけたら伝えておく」
いつの間にか、スピカは口を閉ざしていた。
途中でしていた会話もアンジーには漏れ聞こえていたはずだが、聞こえた声について一切触れてこなかった。
守るべき一線を見極めつつも、軽口を叩く。
感謝の言葉と良い、十歳くらいとは思えない大人びた部分が見え隠れしている。
そんなアンジーの態度に好感が持てた。
壊れた馬車のそばで立ち尽くした男が一人、途方に暮れた様子だった。
元より痩せこけた頬は、虚ろな視線のために、さらに青白さを増して見えた。
針金のように痩せ細った体躯と、紳士然とした尖って立派な口髭とが、いささかアンバランスで、撫でつけられた茶色の髪が、辛うじてちぐはぐな印象をまとめている。
「どこに行ってしまったんだ、アンジー……」
呟く声は低かった。
その痩身の頼りなさに比べると、渋みのある声質だった。
こっちに気がついた様子はない。悲しげな顔で、食料や着替え、その他所持品全部をまとめて突っ込んだ大袋に手を掛けている。
先ほどアンジーを助けるために放り投げた、俺の荷物だ。
「むむむ、やっぱり、この中にはいないか。私の知らないうちに増えていた袋だし、もしかしたらと期待したんだが……」
男は真面目くさった顔をして、俺の荷物を勝手に開けていた。
乱暴に探った袋の中からはアンジーではなく、代わりに鞄を見つけると、躊躇いもせず引っ張り出した。
重たい鞄の中身を探り、みっちり詰まった金貨を発見すると、
「まさか!? この大量の金貨は、アンジーの代金なのか!?」
「パパ……」
近くに横たわっていた馬の亡骸、その背中を優しく撫ぜていたアンジーは、向こう側で無事だった父親に悲しげに呼びかけたが、聞こえなかったようだ。
遠くから全壊した馬車の惨状が見えたときは、半ば絶望的な表情を隠しきれず、その隣に動く人影が見えた途端に年相応の安堵を見せた。そんなアンジーの声だった。
男は仰々しい身振りで天を仰ぎ、顔を覆って身体を震わせた。
鞄から一枚取りだして翳してみれば、金の煌めきが光を跳ね返した。
「なんてことだ、なんてことなのだ! ああ、私のアンジー! こんな金貨ごときで可愛い娘を売ってなるものか! ……いや、これだけの金貨があれば……」
「目を醒ませクソ親父!」
さらりと欲に負けそうになっていた父親に、素早く立ち上がったアンジーは、そのまま駆け寄ってジャンプして蹴りを放った。
脇腹に娘の飛び蹴りが突き刺さって、針金口髭男は、くの字に折れた。
一枚の金貨は、赤茶けた大事に転がった。
「くぅ……この威力はアンジーのもの……今は亡き妻から受け継いだ、痛いけれど後に残さない優しさと厳しさの跳び蹴り……アンジー、良かった、無事だったのか……」
「お父様」
パパとか、クソ親父と呼んだ次は、先刻の淑女風の声色だった。
見れば、淑女風の微笑を浮かべつつ、アンジーの目はまったく笑っていない。
芋虫のように痛みに悶える父親を冷たく見下ろす、十歳くらいの女の子。
「あ、アンジー……ひっ、なんだそこの男は! 裏社会の人間か? 奴隷商人なのか!? だが、これっぽっちの金貨でアンジーを引き渡すと思ったら大間違いだぞ!」
ようやく顔を合わせた親子だったが、空気は冷え冷えとしていた。
「私の命を救っていただいた恩人の荷物に手を掛けるのみならず、娘の身柄より金貨に目が眩んだ言葉、そして勝手な思い込みで奴隷商呼ばわり、しかと見届けました。恥を知りなさい、お父様!」
「だ、だがなアンジー、名高きエメルデアの末席にある私たちがこんな」
「そんな性根だから見限られたのです。だいたい、エメルデアはお母様の実家で、土地無し貧乏貴族の三男だったお父様にはまったく関係無いでしょう!」
「いや、そうは言うがなアンジー、私だって先立つものがあればどうにか」
「それで金の無心を? 本来なら門前払いされて当然のところを、ご厚意により路銀と馬車までいただけたのです。それを感謝もせず、ケチだの何だのと、最後まで不満をぶつけておられましたね。恩も知らない、恥も知らない、お父様は何ならご存じなのかしら」
妙なことに首を突っ込んでしまったと、俺は天を仰いだ。
地上の混迷など素知らぬ顔をして、空はただひたすらに晴れ渡っていた。