最初の雨粒
雨は、気づかないうちに人を濡らす。
激しくもなく、優しくもない。
ただ、静かに降り続けるだけの雨。
その夜も、そんな雨だった。
コンビニの自動ドアが開くと、湿った空気が流れ込んできた。
七海真由はレジの前で財布を取り出している。
僕はその後ろで、何気なく立っていた。
――光った。
彼女のスマートフォンが、かすかに震えた。
普段なら、見ない。
見る理由もない。
でも、その日は違った。
画面に表示された名前。
高橋 涼太
その下に、短い一文。
「今夜も、君を抱きしめたい。」
時間が、止まったわけじゃない。
レジの機械はいつも通りに音を立て、店員は「ありがとうございました」と言った。
でも、僕の中だけが、静かにひび割れた。
真由は振り向く。
「どうしたの?」
僕は何も言わず、スマートフォンを彼女に差し出した。
「メッセージ。」
彼女の指先が、一瞬だけ止まる。
ほんの、コンマ数秒。
だが、その沈黙は十分だった。
彼女は画面を閉じる。
「同僚。送信ミスだって。」
笑顔は自然だった。
声も揺れていない。
完璧だ。
僕は頷いた。
「そうなんだ。」
外に出ると、雨が少し強くなっていた。
一本の傘の下。
彼女の肩が、僕の腕に触れる。
温度はある。
重さもある。
けれど、なぜか遠い。
帰宅後、彼女はすぐに浴室へ向かった。
水の音が、壁越しに響く。
僕はリビングのソファに座り、静かにノートパソコンを開いた。
怒りはなかった。
悲しみも、まだない。
あるのは、計算だけだ。
高橋涼太。
検索欄に名前を入力する。
フリーの写真家。
企業案件をいくつか抱えている。
その中の一社は、僕の会社と資本提携しているファンド経由のスポンサーだった。
偶然?
それとも、必然?
画面に表示された資本構造の図を、僕はじっと見つめた。
点と点が、線になる。
線と線が、網になる。
シャワーの水音が止まる。
「まだ仕事?」
真由が、バスタオルで髪を拭きながら近づいてくる。
「ちょっとした企画を考えてる。」
彼女は背後から僕を抱きしめた。
柔らかい腕。
規則的な呼吸。
鼓動。
すべて、本物だ。
それでも。
その温もりの中に、もう僕はいない気がした。
「最近、忙しいよね。」
彼女の声は、どこか寂しげだった。
僕は振り向かない。
「そうだね。」
嘘は、彼女だけのものじゃない。
その夜、僕は彼女に触れなかった。
天井を見つめながら、ただ一つの結論を出す。
問い詰めても、意味はない。
泣いても、価値はない。
感情は、交渉材料にならない。
ならば。
――設計すればいい。
愛が壊れるなら、構造ごと作り替える。
雨は、まだ止まない。
最初の雨粒は、もう落ちた。
そして僕は、夫であることをやめる準備を始めた。




