困惑の鎮魂歌
体中にさっきの感触が残っている。
『なんだよぉ……』
心底、どうにも治まらない動悸に戸惑っていた。
三階まで一気に駆け上がってきた性だけじゃない。 思いを吐き出しながら泣いた後、訳もわからず立ち上った苛立ちの性だけでもない。
音香の中に、嵐のように様々な思いが渦巻いた。
その夜ベッドにもぐりこんだ音香は、目が冴えてとても眠れる状態ではなかった。 目を閉じると、頼んでもいないのに今までの影待の姿や言動が瞼の裏を駆け巡るのだ。
発表会の控え室で見せた笑顔。
ギター教室での、冷たくも真剣な表情。
演奏する時にだけ見せる、激しく情熱的な姿。
マスターの事で落ち込んだときに、公園まで追いかけてきてくれたこと。
拓也の事で落ち込んだときにも、何度も励ましてくれた。
ライブの時もスタッフとして必ず居てくれて、何かあればアドバイスをくれた。
裕里や拓也が、いち早く影待の音香に対する気持ちに気付いていた事。 もしかしたら、マスターも知っていたのかもしれない。
そして、渾身の思いで引き止められた事。
気付けば、音香のギターの歴史と一緒に影待は居て、音香の為に一生懸命になってくれていた。 それは教える側として当たり前の事をしているだけだと、そう思い込んでいた。 だが裏を返せば、影待が居なければ音香はここまで上達はしなかったし、不思議なことに他の人に頼ろうとも思わなかった。 影待が居れば、音楽の事に関しては安心して道を進んでいける。 そこまで無意識に安心していたのだ。
「…………」
音香自身、ひどく混乱していた。
「あたし、決めたんだ……」
別れ際確かにそう言ったが、正直あの時点で再び気持ちが揺らいでいた。 いきなり抱きしめられた衝撃があったからかもしれない。 だが
『もしかしたら、あたし、先生の事…………』
一晩中、考え込んでいた。
その答えが見つからないまま……いや、本当は見つかっていたのかもしれない。 だが、その事を認められないまま、眠れない夜を過ごしていた。
そして日の出と共に起き上がった音香の思いは、ひとつの方向を指していた。
それは、まだ未来の見えない冒険の入り口だった。
やがて拓也の入籍発表記者会見が開かれ、テレビでも放送された。 すっかり人気者になった証拠だ。
拓也は一人で現れ、たくさんのカメラとマイクの前に座った。 そして眩しいほどのフラッシュを浴びながら、毅然とした態度で、しっかりとした口調で話した。
相手は一般の女性ということだった。
「事件の後ですごく苦しかった時に一番近くに居てくれて、いつも励まして元気づけてくれた人なんです。 彼女にはとても感謝しているし、一生を棒に振らずに済んだ恩返しをしたいと思っています」
そう話す拓也の表情は優しさに溢れ、それは真っ直ぐに、人生をやり直すきっかけを与えてくれた女性に対して向けられていた。
音香はもはや胸が痛むことも涙を流すこともなく、かと言って拓也の幸せを喜ぶ気持ちも沸かずに、無心でそれを観ていた。
音香もまた、自分の進路を見据えていた。
おもむろに、拓也へのプレゼントにとベッド脇に置いてあった思い出の香水を手に取ると、そっとゴミ箱へと落とした。
ゴトンという小さく重い音が部屋に響いた。




