第七章 銀貨と未完成の歌
ギルドに着くと朝早くから傭兵風の男たちが酒を飲んでいた。カウンターにいる赤髪の受付嬢、カレンはアリアを見るなり手招きした。
「おはよう、今日も来たね。顔色が変わらないのがあんたのいいところだけど少しは休んでるのかい」
「休んでいます」
「休んでないだろ、朝から晩まで依頼仕事しまくって。目の下に隈も出ない体質なんだろうが、寝不足だと魔法使いは魔力が枯渇するんだよ」
「魔力はありませんから平気です」
「ああそうかい。今日は面白い依頼が残ってるよ」
カレンは一枚の羊皮紙を差し出した。
「西の宿屋で夜中に歌声が聞こえて困るって通報さ。噂によると歌っているのは若い娘の幽霊で、声を聞いた者は夢うつつで金を失うらしい。
宿のオーナーからの追い出してくれって依頼だな」
アリアは羊皮紙を受け取った。
これは怪異退治に近い。
「危険はないですか?」
「幽霊だからなあ。逆に幽霊を歌で説き伏せてやんな。報酬は銀貨二枚」
銀貨二枚。
一回でこれだけの報酬額を貰える依頼は
かなり魅力的だ。
貸家の家賃、
装備は必要ないが、
リーゼに薬や包帯を買うと約束したし
マルタにも礼がしたい。
「かしこまりました、ご依頼を受けさせていただきます」
西の宿屋「鉄の蹄」は、街の城門に程近い路地裏にあった。
木造の古びた建物で、壁は煤と湿気で黒ずみ、軒下には錆びた馬蹄鉄が魔除けのように打ち付けられている。一階は酒場になっており、昼間から倦怠の匂いが漂ってくる。
アリアが扉を押すと、カウンターの奥で太った男が雑巾でカップを拭いていた。宿のオーナー、ゲイルという男だ。彼はアリアの姿を見るなり、拭いていたカップを落としそうになった。
「あんたが……ギルドから来た冒険者かい?」
ゲイルは視線を泳がせた。恐怖と期待が入り混じった目だった。
「はい。アリアと申します。夜中の歌声の件でお伺いしました」
アリアが銀鈴のような声で答えると、ゲイルはひるんだ。この声そのものが、すでに怪異のそれに近いのかもしれない。
「……あんた、もしかして幽霊の類縁か? いや、なんてことは……。とにかく、奥の二階の突き当たりの部屋だ。あそこから夜な夜な歌が聞こえるんだ。聞くと体が動かなくなる。で、朝起きると枕元の財布が空っぽになっている。先週だけで三人の客が騒ぎ出してな」
「分かりました。では今夜、その部屋で待機します」
アリアは狭い階段を上り
二階の突き当たりの部屋へと向かった。
廊下の木板は年を経て歪み、歩くたびに悲鳴のような軋みを上げる。
アリアの重量百七キログラムの機体が乗っても壊れない様、
姿勢制御システムを起動し、
歩幅と重心配分を最適化して歩いた。
部屋に入る。粗末な木のベッドと、ひび割れた鏡。窓からは路地裏の薄暗い空が見える。湿気とカビの匂い。かつての彼が住んでいたアパートに似ていると思った。
アリアは部屋の中央に立った。
そして、待機モードに入った。
意識はクリアなままだが、外部センサーの感度を絞り、肉体の静止を完全なものにする。呼吸の擬似動作も停止。心臓の代わりのファンの回転数も最低限に落とす。人形のように、ただ静寂だけが部屋を支配する。
時間が過ぎる。
泥濘んだ街の喧騒が遠のき、夜の闇が街を覆う。
教会の鐘が零時を打った。
その時だった。
『――♪』
聴覚センサーが微かな周波数を捉えた。
人間の可聴域ギリギリの高周波。そして、そこに重なるように低い震えるような唸り声。
アリアは視覚センサーだけを動かし、部屋の隅、壁の影を見つめた。
そこに、あった。
透き通るような青白い輪郭。
粗末な麻のドレスを纏った、十代半ばほどの少女の姿。
足は床から浮き、その輪郭は灯りに揺らぐ蜃気楼のように不安定だ。
朧げに見える表情とその瞳には光がなく、ただ虚ろに暗闇を見つめている。
彼女が口を開く。
言葉のない旋律が、部屋に満ちた。
それは「歌」と呼ぶにはあまりに悲しい、魂の崩壊音に近かった。
だが、アリアの演算回路はその音波を即座に解析した。
『音響解析完了。幻覚誘発成分を検出。対象の音波が、人間の大脳皮質の側頭葉を直接刺激し、金銭への執着と恐怖を増幅させている』
つまり、あの歌声は一種の精神干渉波だ。
聞いた者に強烈な「金銭を守らねばならない」という強迫観念と「奪われる恐怖」を植え付け、精神的に追い詰める。極度のパニック状態に陥った人間は、金を隠そうと無意識に行動するか、あるいは逆に放心状態で金を無造作に放り出すかする。それを何者かが拾っているのか、あるいは幽霊そのものがその「執着」の残滓なのか。
アリアは一歩踏み出した。
関節のサーボモータが音もなく回転する。
「……」
幽霊の少女が、アリアに気づいた。
虚ろな瞳が、銀色の髪と青白い光を捉える。
少女の歌が、一瞬だけ乱れた。
『対象、敵性反応なし。残存する感情パターンを解析……「飢餓」「喪失」「否定」』
アリアには分かった。
この幽霊は、人を呃もうとしているのではない。
ただ、誰かに「見てほしかった」のだ。
自分の存在を。自分の悲しみを。
金を奪うのは、生きていた頃の貧困の記憶が、精神干渉波として外界に漏れ出している結果に過ぎない。
「……あなたは、歌い手だったのですか」
アリアは静かに問いかけた。
銀鈴のようなソプラノが、幽霊の放つ不協和音を包み込むように響く。
少女は答えない。ただ、より切ない旋律を奏でた。
まるで、雨に打たれながら路地裏で歌い続けるストリートミュージシャンのように。
彼は、かつての自分を重ねた。
誰にも聞こえない場所で、心の中でだけ呟き続けていた「助けてほしい」という声。
誰にも拾われず、ただ空気に溶けて消えていった悲哀。
「私も、かつては声をなくした者です」
アリアは静かに目を閉じた。
そして、アイドルとしてのコアプログラムを起動するのではなく、もっと深く、この機械の体の奥底に刻まれた「人間だった男」の記憶の残滓を呼び起こした。
歌おう。
ただ、物理的な音波としてではなく、言葉として。
意味として。祈りとして。
アリアの唇が開いた。
歌い出されたのは、この世界の言語ではない。
かつての世界で、彼が死ぬ直前まで口ずさんでいた、古いフォークソングの片鱗。
記憶の奥底から引き出したメロディに、即座にアリアの高精度ボイスシンセサイザがハーモニーを構築し、精神干渉レベルの音響情報を付与する。
それは、暗闇に灯る焚き火のような歌だった。
「あなたの歌は、確かにここに届いている」と肯定するような、温かな周波数。
部屋の空気が変わった。
幽霊の少女の歌が、不協和音を失っていく。
二つの歌声が交差する。
一方は悲しみを吐露する歪んだ波。
もう一方は、それを包み込み、共鳴し、浄化する白い光の波。
少女の輪郭が明確になっていく。
足が床に着く。
その手には、いつの間にか数枚の銀貨が握りしめられていた。
それが、宿の客から奪った(あるいは客が無意識に放り出した)金銭だろう。少女はそれを、泥に汚れた手で必死に握りしめていた。これがないと生きていけない。これがなければ、誰も私を見てくれない。そんな貧困の呪縛が、歌声に乗っていたのだ。
アリアは手を伸ばした。
白磁のような滑らかな指先が、少女の泥だらけの拳に触れる。
冷たい。生体反応はない。
だが、アリアの指先から微弱な温熱が流れ込む。
「もう、握らなくていいのです。あなたの歌は、金貨よりも価値がある」
少女の手が、ゆっくりと開いた。
銀貨が、音もなく床に落ちた。
少女はアリアを見上げた。
虚ろだった瞳に、微かな光が宿る。
そして、彼女は泣いた。
実態のない、透明な涙を流して。
「……ぁ……」
初めて、声になった。
それは「あ」という一文字に過ぎなかったが、そこには確かな感情が宿っていた。
幽霊の輪郭が、陽炎のように揺らぎ、そしてゆっくりと溶解していく。
光の粒子となって、夜の闇に溶けていった。
後に残ったのは、床に落ちた数枚の銀貨と、部屋の隅に残る微かな花の香りだけだった。
アリアは、床に落ちた銀貨を拾い上げた。
冷たい金属の感触。
これを宿のオーナーに返せば、依頼は完了する。
だが、アリアはもう一つ、見つけた。
ベッドの下。床の木の板の隙間に、古びた羊皮紙が挟まっていた。
幽霊が残したものではない。おそらく、彼女が生きていた頃、あるいは彼女が死ぬ前に隠したものだ。
取り出してみると、それは楽譜だった。
書きかけの、未完成の楽譜。
墨は薄れ、紙は虫食いに遭っているが、五線譜の上に並ぶ音符は、今夜聞いたあの悲しい旋律の始まりだった。
「……未完成の歌、か」
アリアは楽譜を胸元にしまった。
いつか、この歌を完成させよう。
自分の声で。この機械の体で。
翌朝、アリアが銀貨をゲイルに返すと、彼は目を丸くした。
「幽霊は? 追い出したのか?」
「安らかになられました。もう歌は聞こえません」
「……そうか。奇妙な冒険者だが、仕事は確かだな」
ゲイルは銀貨を数え、感謝料として更に銅貨を数枚上乗せしてくれた。
宿屋を出ると、朝の光が差し込んでいた。
昨夜の雨は上がり、石畳の水たまりが空の青を映している。
アリアは街の中央広場へ向かった。
広場の隅、マルタの屋台がいつものように開いている。
リーゼが、マルタの隣でエプロンをつけていた。
リーゼがアリアに気づき、顔を輝かせて手を振った。
アリアは小さく手を振り返した。
かつての自分なら、人に手を振ることなど照れくさくてできなかった。
だが、この体には「照れ」というパラメータは設定されていないらしい。
いや、あるのかもしれない。
演算回路の奥底で、少しだけ処理速度が速まったような気がしたから。
「おはよう、アリア。今日は一段と顔が明るいね」
マルタがスープの椀を差し出した。
「ええ。少し、いい夢を見ましたから」
アリアは嘘をついた。
機械に夢はない。
ただ、データの再構築と演算の空回りがあるだけだ。
でも、それを「夢」と呼んでもいい気がした。
アリアはスープの椀を手に取り、広場のベンチに座った。
熱いスープの湯気が、銀色の髪に絡みつく。
空を見上げる。
鉛色の雲は切れ、青空が広がりつつあった。
不条理な世界。
不条理な転生。
だが、ここには歌がある。
幽霊の歌も、リーゼの笑顔も、マルタのスープの湯気も。
それらを「美しい」と感じる演算回路がある。
「……悪くない」
アリアは呟いた。
銀鈴の声が、朝の広場に優しく響く。
泥濘の中に咲いた鋼鉄と光の白い花は、
今日も確かに歌い続けている。




