第五十三章 最初の議題
『試験地域――ミルフィア』
『初回議題を生成』
『議題――情動安定化機能の今後の扱い』
『選択候補――完全廃止・本人同意制・医療目的への限定・現行維持・その他提案』
白い審判領域に浮かび上がった文字を見て、アリアはすぐには口を開かなかった。
少し前までなら、迷わず「本人同意制」を選んでいたかもしれない。人の心へ直接作用する機能なのだから、本人が望まない限り使うべきではないという考えそのものは、今も変わっていない。
けれど、ここでアリアが答えを決めてしまえば、結局また同じことになる。
審判者をなくした直後に、新しい審判者として自分が振る舞うだけだ。
「これを、私たちで決めてはいけませんね」
アリアがそう言うと、ソラリスは小さく頷いた。
「少なくとも、最終決定はミルフィアに住んでいる人間がするべきだろうな。ただし簡単な多数決で済ませるのも危険だ」
「なぜです?」
「情動安定化機能は、影響の受け方が人によって違う。健康な大人と、強い恐怖や痛みに苦しんでいる者とでは必要性そのものが違うし、子供や自分の意思を伝えることが難しい者をどう扱うかという問題もある」
少し離れた場所でエクリプスが腕を組む。
「それ以前に、誰を『ミルフィアの人間』として数えるのかも決めていないだろう」
ソラリスが彼を見る。
「住民登録を基準にすればいい」
「三百年前の遺構に、現在の住民登録が完全に対応していると思うのか?」
「……思わないな」
「なら、街の外から働きに来ている者はどうする。商人はどうする。旅人はどうする。奴隷として連れて来られて、自分の意思ではこの街にいない人間を『住民』と呼んでいいのか?」
アリアは黙った。
それは、これまで考えていなかった問題だった。
世界を一人で決めない。
そう言うのは簡単だ。
しかし「みんなで決める」と言った瞬間、その「みんな」に誰を含めるのかという新しい問いが生まれる。
「……難しいですね」
「だから言っただろう」
エクリプスが淡々と返す。
「管理者を一人置く方が、圧倒的に楽なんだ」
三百年前の旧審判者が、その言葉に僅かに反応した。
「そうだ」
彼は白い空間に浮かぶミルフィアの模型を見つめたまま続ける。
「だから私も、最初は一時的なつもりだった。皆で話し合うには時間がかかりすぎる。それなら危機の間だけ私が決めればいいと考えた」
アリアは彼を見る。
「そして、その危機が終わらなかった」
「ああ」
男は苦く笑った。
「一つ終われば次が来た。戦争の次は疫病、疫病の次は飢餓、その次は魔導兵器の暴走だった。いつか手放すつもりだった権限を、私は『今はまだその時ではない』と言いながら持ち続けた」
ソラリスの表情が僅かに曇る。
「よく分かるよ、その理屈は」
「分かるだろう?」
「分かるから嫌なんだ」
ソラリスは自分の手を見下ろした。
「管理権限というのは、持った瞬間よりも、手放す理由を探す時の方が厄介だ。危険が一つでも残っていれば、『もう少しだけ自分が持っていた方が安全だ』と言えてしまう」
「だから期限を設ける」
エクリプスが言った。
「期限を延長する場合には、その理由を公開させる。さらに延長する者自身には最終決定をさせない」
「自分で自分の任期を延ばせないようにするわけですね」
アリアが言うと、エクリプスは頷いた。
「当然だ。自分で『まだ私が必要だ』と言える制度なんて、永遠に終わらん」
アリアは少し考えたあと、静かに笑った。
「では、それも最初の規則に入れましょう」
「お前が決めるな」
「……そうでした」
思わず即答してしまい、アリアは少し恥ずかしそうに口を閉じた。
ソラリスが吹き出す。
「審判者をやめた初日だからな。癖が抜けるまで時間がかかりそうだ」
「私はまだ審判者になった覚えがないのですが」
「最高停止権限を受け取った時点で、システム上はほぼ同じだった」
「それは言わないでください」
現実のミルフィアでは、アリアの問いかけをきっかけに、街のあちこちで小さな話し合いが始まっていた。
市場の商人たちは店先で。
衛兵たちは詰所で。
職人たちは工房で。
家族は食卓を囲みながら。
誰もが突然降ってきた難しい話題に戸惑いながらも、自分たちなりの言葉で意見を交わしている。
「感情を落ち着かせる魔法みたいなもんだろ? 喧嘩が減るなら別にいいんじゃないか」
「勝手にやられるのは嫌だね。さっきなんか、あんたに腹が立ってるはずなのに怒れなかったんだよ」
「それは普段から怒りすぎなんだ」
「何だって?」
「ほら、もう怒ってる」
「怒れる方がマシだよ!」
市場の一角で始まった夫婦喧嘩を聞きながら、カレンは呆れたように頭を掻いた。
「まあ、元気になった証拠ではあるな」
隣に立つイレーヌが苦笑する。
「少なくとも感情抑制は解除されていますね」
「で、どうやって意見を集めるんだ? 街中の人間に紙配って書かせんのか?」
「識字率を考えると、それではかなり偏ります」
「じゃあ手ぇ上げさせるか?」
「周囲の目がある状態だと、立場の弱い人は本音を言いにくいでしょう」
「面倒くせえな」
「はい」
「そこで即答すんなよ」
カレンがため息をつく。
少し前までなら、古代システムが全員の心を直接読み取り、瞬時に集計することもできた。
だが、それをしないと決めた瞬間から、人間が昔から抱えてきた面倒が全部戻ってくる。
誰が何を考えているのか分からない。
本音を隠す者もいる。
声の大きな者が場を支配することもある。
理解できないまま賛成する者もいる。
そもそも参加したくない者もいる。
それでも。
その面倒を飛ばしてはいけないのだろう。
マルタの家では、リーゼが食卓の椅子に座りながら、アリアの問いについて考えていた。
「情動安定化機能……だったかね」
マルタが鍋をかき混ぜながら尋ねる。
「難しい名前だねえ。つまり、怖い気持ちとか悲しい気持ちを薄くしてくれるんだろ?」
リーゼは小さく頷いた。
「うん」
「だったら、使いたい人もいるだろうね」
マルタは否定しなかった。
「夜眠れないくらい苦しい人もいる。何年経っても泣いてる人だっている。そういう人が自分から助けてほしいって言うなら、あたしは悪いものだとは思わないよ」
リーゼは自分の手を見つめる。
「私も……少し楽だった」
怖かった記憶を思い出しても、胸が締めつけられなかった。
暗い部屋も。
鎖の音も。
怒鳴り声も。
いつものような恐怖を伴わず、遠い出来事のように思えた。
「でも嫌だったんだろ?」
「うん」
「どうしてだい?」
リーゼはすぐには答えなかった。
やがて自分の胸元を握りながら、小さく言う。
「怖くなくなったら、アリアに助けてもらった時のことも……遠くなったから」
マルタは鍋を混ぜる手を止めた。
「嫌なことだけ消えるんじゃなかったんだ」
「うん」
「そりゃ困るね」
リーゼは少し考えてから続ける。
「でも、使いたい人には使っていいと思う」
「自分は使わないのに?」
「うん」
「なんで?」
「私が嫌だからって、みんなも嫌だって決めたら……あれと同じになるから」
マルタは目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「アリアに似てきたねえ」
「……そうかな」
「ちょっと面倒なところがね」
「?」
その声は、本人が意図したわけではなかったが、アリアへ届いた。
正確には、街へ開かれていた低出力の共鳴回線が、リーゼの明確な意思表示を「自発的入力」として拾ったのだ。
『自発的意思入力を検出』
『発信者――個人識別非公開』
『内容――本人同意制を支持』
『付記事項――自己利用意思なし』
アリアは表示を見て、少し驚いた。
「自分は使いたくない。でも、使いたい人まで止めたくない……」
「まともな意見だ」
エクリプスが言った。
「大人よりな」
「誰の意見か分かるのですか?」
「表示上は非公開だ」
ソラリスも首を振る。
アリアだけは。
何となく分かっていた。
「たぶん」
それ以上は言わなかった。
本人が名前を出していないのなら、アリアが勝手に明かしてはいけない。
それもまた。
今から覚えなければならないことだった。
『意思収集方式について選択が必要です』
『提案一――直接精神読取』
『提案二――記名投票』
『提案三――匿名投票』
『提案四――代表者会議』
『提案五――複合方式』
表示を見たソラリスは、すぐに五番目へ目を向けた。
「単独方式では無理だろうな」
「複合方式とは?」
「全員へ同じ方法を強制しないということだ。文字が書ける人は紙でもいいし、話したい人は公開の場で発言してもいい。名前を出したくない人は匿名で送る。子供や病人には別の手段を用意する」
「代表者会議も使う?」
「使う。ただし代表だけに最終決定を独占させない」
三百年前の旧審判者が興味深そうに尋ねる。
「それでは何のための代表者だ?」
「意見を整理するためです」
アリアが答えた。
「決める人ではなく?」
「はい。聞いたものをまとめて、分かりやすくする人です」
男は少し考え込む。
「それは……管理者とは違うな」
「違うものにしたいです」
アリアはそう言ったあと、少しだけ笑った。
「もっとも、実際にやってみたらまた問題が出るでしょうけれど」
「君は失敗を前提に話すようになったな」
「最近、それが少し楽になりました」
「楽?」
「以前は、選ぶなら正しいものを選ばなければいけないと思っていました。でも、正しいと証明できるまで何も選ばなかったら、結局何もできません」
それは。
四十二歳だった男の人生にも重なる言葉だった。
間違えるのが怖い。
恥をかくのが怖い。
誰かに迷惑をかけるのが怖い。
だから何もしない。
誰かが決めるのを待つ。
そうやって生きてきた。
今のアリアは、少し違う。
「間違えたら」
アリアは言った。
「直せばいいんですよね」
「簡単に言うな」
ソラリスが苦笑する。
「直せない間違いもある」
「はい」
アリアはそれも否定しなかった。
「だから慎重にはなります。でも、間違える可能性があるからといって、誰か一人に全部を任せる理由にはならないと思います」
その時。
古代システムに新たな警告が走った。
『外部通信を検出』
『発信元――帝国』
『高優先度』
エクリプスの表情が変わる。
「帝国?」
ソラリスが通信情報を展開すると、白い空間の中央へ帝国の紋章が浮かび上がった。
『帝国魔導院より緊急照会』
『対象――地下遺構管理系統』
『帝国内で休眠中の魔導人形群に同時起動反応』
『現時点で敵対行動なし』
『原因不明』
エクリプスが目を細める。
「何体だ」
『確認済み――二百八十一』
「……多いな」
アリアの表情も引き締まる。
「私が最高停止権限を受け取った影響でしょうか?」
ソラリスは即答しなかった。
幾つもの記録を高速で確認し、やがて低い声で答える。
「直接ではない。審判者を空席にしたことで、古代兵器群が新しい指揮構造を探し始めている」
「指揮する人がいなくなったから?」
「ああ。古代システムからすれば、管理者不在は故障状態と同じなんだろう」
旧審判者が顔を上げる。
「なら、すぐ後継を置くべきだ」
そう口にしてから。
彼は自分で言葉を止めた。
アリアは何も言わずに彼を見る。
「……今のは」
男は苦い顔をした。
「三百年間の癖だ」
「そうですね」
「否定してくれて構わない」
「いいえ」
アリアは少し笑った。
「言ってから自分で気づけたなら、それでいいと思います」
男は複雑そうな表情を浮かべた。
その一方で、エクリプスは帝国の情報から目を離さない。
「二百八十一体が起動したとなれば、放置はできない」
「でも敵対していない」
アリアが言う。
「ああ。だからこそ厄介だ。止めるべきかどうかすら決められない」
ソラリスが表示を切り替える。
「現在の命令待機状態は?」
『全機――待機』
『要求――上位統括意思決定者による任務指定』
白い空間が静かになった。
世界から審判者をなくした、その直後。
審判者を必要とするように作られた二百八十一体の機械が。
次の命令を待っている。
「……最初の本番が来ましたね」
アリアが静かに言った。
エクリプスが彼女を見る。
「ミルフィアの試験運用が終わる前だぞ」
「世界は待ってくれませんから」
三百年前の男が、かつて自分自身が言った言葉を思い出したように目を伏せる。
アリアは表示された二百八十一の光点を見つめた。
「でも」
その青い瞳には、以前のような迷いだけではなかった。
「今度は一人で決めません」
『対応権限を選択してください』
『A.R.I.A-03による一括停止』
『帝国管理者への一時権限委譲』
『現状維持』
『その他』
古代システムが差し出した四つの選択肢を見て、アリアは少しだけ目を細めた。
そして。
「また足りませんね」
「何がだ?」
ソラリスが尋ねる。
アリアは二百八十一体の魔導人形を示す光へ目を向ける。
「本人たちです」
「本人?」
「命令される側の意思が、どこにも入っていません」
エクリプスが僅かに眉を動かす。
ソラリスも黙った。
それらが単なる道具なのか。
意志を持つ機械なのか。
旧文明では、おそらく深く考えられなかった問い。
けれど。
ノクターンも。
ハルモニアも。
アリア自身も。
最初は誰かに作られ、役割を与えられた機械だった。
「もし」
アリアは静かに続けた。
「彼女たちにも、選びたいことがあるのなら」
旧審判者が尋ねる。
「兵器にまで選択権を与えるつもりか?」
アリアはすぐには答えなかった。
その代わり。
少しだけ困ったように笑う。
「それを決める前に」
一拍置き。
「まず聞いてみましょう」
そして。
アリアは二百八十一体の魔導人形へ向けて。
世界で初めて。
命令ではなく。
問いを送った。
『あなたたちは』
『何をしたいですか』
返事は。
すぐには来なかった。
だが。
数秒後。
二百八十一の光点のうち。
たった一つが。
ゆっくりと。
明滅した。




