第318話 さよなら、僕の友達
夕日が、ルセ大第十三号館のオープンカフェを橙色に染めていた。
昼間の賑わいが少しだけ引いた時間帯。
テラス席にはまだ何組かの学生が残っていたが、昼食時ほどの喧騒はない。
吹き抜ける風もやわらかく、遠くでは部活帰りらしい学生たちの笑い声が聞こえていた。
そんな穏やかな空気の中で、佐川颯太は一人、カフェの端の席に腰掛けていた。
目の前のグラスには、氷の溶けかけた飲み物が半分ほど残っている。
ストローでそれをかき混ぜながら、颯太は何となく中庭の方へ視線を向けた。
急に呼び出された時は少し驚いたが、相手がラグナならそこまで不自然でもない。
本戦を明日に控えたこのタイミングだ。緊張を紛らわせたくなったとか、あるいはまた妙に回りくどい相談でもあるのかもしれない。
むしろ、そういう話なら少し嬉しいとすら思っていた。
ラグナ・ゼタ・エルディナス。
初めは面倒くさくて、キラキラしていて、自分のことを“主人公”だと本気で信じている、だいぶ厄介なやつだと思っていた。
でも、最近は少し違う。
強がりで、面倒くさくて、でもどこか不器用で。
変なところで意地っ張りなくせに、変なところで素直なやつでもある。
少なくとも颯太にとって、ラグナはもう、からかい半分で付き合うだけの相手ではなかった。
ラグナは、友達だ。
だからこそ、本戦前で落ち着かないなら、少しくらい付き合ってやりたい。
そんな気持ちで待っていた。
やがて、オープンカフェの入口から、金髪の少年が姿を見せた。
ラグナだった。
けれど、その姿を見た瞬間、颯太は小さく眉をひそめた。
いつもと違う。
歩き方そのものは乱れていない。
背筋も伸びているし、服装もいつも通りきっちりしている。
だが、表情が硬い。
硬いというより、凍っている、に近かった。
あれだけ目立つやつなのに、妙に気配が静かだ。
明るさがない。
いつもなら、こちらを見つけた時点で何かしら一言、気取った挨拶でも飛ばしてきそうなものなのに、それもない。
颯太は椅子に座ったまま、明るい調子を崩さず手を上げた。
「よっ、ラグナ。どうしたんだ? 急に呼び出したりなんかして。あ、本戦がいよいよ明日に迫って、流石のラグナも緊張してきたとか?」
冗談めかしてそう言ったが、ラグナは笑わなかった。
テーブルを挟んだ向かい側まで歩いてくると、彼は席に座ることもせず、その場に立ったまま颯太を見下ろした。
夕日を受けた横顔が、ひどく冷たく見える。
颯太はそこでようやく、本格的に嫌な予感を覚えた。
「……ラグナ、どうした? 何かあったのか?」
今度はちゃんと心配して言った。
するとラグナは、ほんの一拍置いて、口を開く。
「──颯太。正直に答えてくれ」
声が低かった。
いつもみたいな気障さも、軽さも、どこにもない。
「キミは……知っていたのか?」
ラグナの瞳が、まっすぐ颯太を射抜く。
「アルド・ラクシズの、“本当の力”を」
その瞬間、颯太の心臓がどくりと鳴った。
アルドの、本当の力。
その言葉の意味は、十分すぎるほど分かる。
颯太は知っている。
ラグナがずっとアルドを意識していたことも。
“宿敵”だの“ライバル”だのと、妙な言い回しをしながらも、本気でアルドを目標にしていたことも。
そして同時に、颯太は知っている。
アルド・ラクシズが、どれほど常識外れの存在なのかを。
洗脳されていた自分が、神器“破邪七星剣”のレーザーを顔面に浴びせた時。
あの人は、まるで何事もなかったみたいに『眩しい』と顔を顰めながら平然とそこに立っていた。
スレヴェルドで見た、白銀の巨竜。
あれが本当に同じ存在なのだと知った時、颯太は言葉を失った。
敵も、味方も、街そのものさえも救ってみせた。
あれはもう、単に“強い人”なんて言葉で収まる存在じゃない。
神に近い、何かだ。
しかもアルドは、ラグナと同じく現代日本からの転生者でもある。
誰よりも強くて。
誰よりも優しくて。
そして、多分、誰よりも“自分がどれほど規格外か”を気にしていない。
仮に、今ここで颯太がラグナへ向かって、
『ああ、知ってるよ。アルドさんはお前が思ってるよりずっと化け物だ』
と喋ってしまったとしても、アルドはたぶん怒らない。
きっと、
『えっ!? ちょ、佐川くん、しゃべっちゃったの!?』
と、ちょっと焦って。
それから困った顔で笑うくらいだろう。
でも、だからといって。
本人の許可なく、勝手に秘密を喋っていいわけじゃない。
アルドも、颯太にとっては恩人だ。
颯太は唇を引き結んだ。
しかも、自分は決めていた。
ラグナについてのことは、アルドには話さない。
親友の鬼塚にだって、一言も漏らさない。
それが自分なりの公平さだと思っていた。
アルドたちもまた、そのことについて何も追及してこなかった。
言わないでいてくれているのだと、分かっている。
だから今も、簡単には言えない。
「そ、それは……」
声が詰まる。
その、ほんの一瞬の沈黙で、全部伝わってしまったらしかった。
ラグナの顔が、一瞬だけ歪んだ。
怒りとも、悲しみともつかない表情。
それはほんの刹那で、すぐに元の硬い顔へ戻る。
「……そうか」
静かな声だった。
「キミのその反応で、大体分かったよ」
そう言うと、ラグナは踵を返した。
そのまま去っていこうとする背中へ、颯太は反射的に声をかける。
「ま、待てよ、ラグナ!」
椅子を引く音がやけに大きく響いた。
「黙ってた事は悪かった! でも、俺は……」
「来るなッ!!」
ラグナが振り返りもせずに怒鳴った。
その声に、颯太の身体がびくりと止まる。
オープンカフェにいた何人かの学生が、何事かとこちらを見る。
けれどラグナは、そんな視線など気にする様子もなく、背を向けたまま低く言った。
「……知ってたんだろ?」
その声は、少しだけ震えていた。
「アルド・ラクシズが、かつての僕とは比べ物にならないほどの力を秘めた怪物だ、ってこと」
颯太の喉が詰まる。
ラグナは続けた。
「──勝てもしない相手に『“宿敵キャラ”だ!』だなんて、馬鹿みたいにはしゃいでた僕の姿は……さぞ、滑稽だっただろ?」
その一言には、怒りだけじゃなかった。
むしろ、怒り以上に、自分自身を笑ってしまうような、ひどく痛々しい自嘲が混ざっていた。
颯太は思わず一歩踏み出しかける。
「──ッ!? 違う!! 俺は──ッ!!」
違う。
本当に、そう思っていたわけじゃない。
確かに颯太は思っていた。
いくらラグナが強いとはいえ、あのアルドに勝つのは無理だろう、と。
けれど、それだけじゃない。
アルドはこの“統覇戦”では明らかに力をセーブしていた。
条件次第では、本当にいい勝負になるかもしれないとも思っていた。
何より、アルドという存在を得て、ラグナがこれまでになく生き生きしているのを見てしまったから。
野暮なことは言いたくなかった。
それだけだったのだ。
それに、自分はちゃんと線を引いていた。
ラグナについての情報は、アルドにも鬼塚にも漏らしていない。
どちらか一方の肩を持つような真似はしていないつもりだった。
でも、そんな颯太の気持ちなど、今のラグナには届かない。
◇◆◇
「言い訳なんか聞きたくないッ!!」
その怒声と同時に。
ラグナの全身から、ぞわり、と魔力が噴き上がった。
「──ッ!?」
颯太は反射的に腕を前へ出す。
空気が一瞬で重くなる。
頬を、びし、びし、と見えない波が叩いた。
金色の魔力。
そこへ銀色が混ざる。
さらに、その奥に──ほんのわずかに、黒。
以前までのラグナとは、明らかに違う。
大きい。
圧がある。
密度が、別物だ。
息が詰まり、足が一瞬すくむ。
(──ッ!?)
颯太の背筋を、冷たいものが走った。
(何だこの魔力!?)
ラグナの魔力量が馬鹿げているのは前から知っていた。
けれど、これはそんなレベルじゃない。
(ラグナの魔力のデカさは知ってたけど……これは、以前とはまるで別物だ!!)
そして、その気配の一部に、颯太はどうしようもなく“あの人”を連想してしまった。
(まるで、アルドさんみたいな……!?)
けれど、同時に違う。
アルドの力は、圧倒的でも、もっと澄んでいた。
今、ラグナから漏れたものは、似ているのに、どこか歪で、禍々しくて、見てはいけないものに近い。
胸の奥で、“破邪勇者”がざわついた。
警鐘。
言葉にならない危険信号。
まるで何か別種の、もっと根源的にまずいものへ触れたような感覚が、颯太の本能を逆撫でした。
だが、その異変を自覚したのはラグナ自身も同じだったらしい。
ラグナは一瞬だけ、しまった、という顔をした。
ほんの一瞬。
それからすぐに、何事もなかったみたいに表情を凍らせる。
「……もう僕に関わるな、颯太」
ラグナは低く言った。
そして、わざと一拍置いて、言い直す。
「いや、佐川颯太くん」
その呼び方に、颯太の胸が痛む。
「ラグナ……」
思わずその名を呼ぶ。
だがラグナは振り返らない。
「──王子である僕を呼び捨てにするなんて、不敬だよ、キミ」
声は静かだった。
でも、それが余計に痛かった。
友達としての距離を、身分という壁で無理やり切り直そうとしている。
それが分かるからこそ、余計に。
ラグナはそのまま歩き出す。
夕日に伸びた影が、長く、長く石畳の上へ落ちていた。
その背中を、颯太は追えなかった。
追ってはいけない気がしたし、何より、あの一瞬だけ漏れた魔力の異様さが、まだ身体の芯に残っていた。
呼吸を整えることすら、少し難しい。
ラグナは、二、三歩進んだところで、ほんのわずかに足を止めかけた。
肩が、かすかに揺れる。
振り返るのかと思った。
けれど、結局、振り返らない。
そのまま、前を向いたまま、小さく呟く。
「さよなら」
あまりにも小さくて、風に紛れそうな声だった。
「僕の、二人目の友達」
颯太の喉が詰まる。
二人目。
その言葉の意味を考えるより先に、その寂しさだけが胸へ落ちてきた。
ラグナは、もう振り返らなかった。
金髪の背中が夕暮れの中へ遠ざかっていく。
それを颯太は、ただ立ち尽くしたまま見送ることしかできなかった。
テラス席に置きっぱなしになったグラスの中で、氷がひとつ、からんと小さく鳴った。
その音だけが妙に鮮明に耳へ残る。
友達として、何か言えたはずだったのか。
もっと別の言葉があったのか。
そもそも、最初から何も言わないのが正解だったのか。
分からない。
ただ一つ分かるのは。
今、去っていったラグナは、もう前と同じ場所にはいない、ということだけだった。
夕日はまだ綺麗だった。
空は穏やかで、風もやさしい。
なのに、その景色の中で、ひどく取り返しのつかないものが壊れてしまった気がして。
佐川颯太は、しばらくその場から動けなかった。




