第310話 ルシア vs. メガロ・スペクトラ③ ──嫉妬《リヴァイアサン》──
ルシアは、きゅ、と指を握り込んだ。
細く白い指先が、骨ばった音もなく掌へ沈む。
その動きひとつで分かる。
血の巡りも、筋肉の締まりも、骨の軋みすら――いつもの自分とは、まるで違っていた。
もう一度、ぐっ、と拳を作る。
今度は意識して、もっと深く。
腕の内側を通る魔力の流れを探り、肩、背、腰、脚へと巡らせる。
けれど、その感覚はあまりにも頼りない。広大な海を抱えていたはずの器が、誰かに一気に削り取られたような、奇妙な軽さだった。
ルシアの睫毛が、わずかに震える。
(……弱い)
その一語が、胸の内でひどく冷たく響いた。
試すように、さらに魔力を深く沈める。
意識を己の核へと落とし、竜としての本質へ触れようとする。
人の皮の下に眠る、真祖竜の巨躯。
世界の理を踏みしだくための、あの圧倒的な形へ。
──だが、応えはなかった。
胸の奥にあるはずの“変じる感覚”が、沈黙している。
翼も、尾も、爪も、銀の鱗も。
何ひとつ、己の内側から起き上がってこない。
ルシアは、ゆっくりと目を細めた。
(……戻れない)
喉の奥が、ひどく乾く。
それは恐怖に似ていたが、彼女は決してそれを恐怖とは呼ばない。
ただ、理解しただけだ。
今の自分は、本当に削がれている。
表面だけではない。根本から。
そして、その理由にも、薄々気づいてしまっていた。
(わたしが……ブリジット・ノエリアを、羨んだ……?)
その考えが浮かんだ瞬間、ルシアの眉が、ほんの僅かに寄る。
けれど、頭のどこかは冷静に、残酷なほど冷静に、繋がった答えを弾き出している。
(だから、嫉妬の魔王の権能で……わたしの力が、ブリジット・ノエリアと同程度まで抑えられた──と?)
馬鹿げている。
そんなもの、笑い飛ばしてしまいたかった。
たかが感情ひとつで。
一瞬胸の底を掠めた、わずかな羨望ひとつで。
真祖竜の力が削がれるなど、あまりにも滑稽で、あまりにも癪だった。
だが、現実は、拳の重さとしてそこにあった。
そのとき、宙の向こうで、くつ、と小さな音がした。
白いヴェールの奥。
顔を覆う布の内側で、誰かが喉を鳴らして笑ったような、湿った響き。
「愚禿が権能、味わっていただけましたかな……?」
メガロ・スペクトラが、うやうやしく、それでいて底の見えぬ悪意を滲ませながら、魔人器"妬心幻鏡”を振るった。
鈍く白い光が走る。
次の瞬間、左右に控えていた黒い人影が、ぬるりと動いた。
偽ルーク。
偽ビショップ。
真祖竜の力を映し取った、歪んだ鏡像。
二体は言葉もなく、ただ殺意だけを剥き出しにして、ルシアへ襲いかかってきた。
先に踏み込んだのは偽ルークだった。
黒く塗り潰された巨体が、空間ごと圧し潰すような勢いで間合いを詰める。
握られた大斧が、上段から叩き落とされる。
「……っ!」
ルシアは反射的に後方へ飛んだ。
いや、ただ後ろではない。斜め上方へ、空間を蹴るように身を跳ね上げる。
轟、と空気を裂いて、大斧が彼女のいた位置を通過した。
一瞬遅れて、地面が爆ぜる。
石床が砕け、粉塵が噴き上がった。
だが、避けた。
そう思う間もない。
黒煙の向こうから、もうひとつの影が滑り込んでくる。
偽ビショップ。
無言のまま、その手に握った巨大なメイスを、空から振り下ろしていた。
ルシアの瞳が、わずかに見開かれる。
早い。
真祖竜の力を借りた一撃は、見えていてなお重い。
咄嗟に、両腕を胸の前で交差させる。
次の瞬間、鈍い衝撃が全身を貫いた。
「――ッ!」
爆発のような轟音とともに、ルシアの身体が真下へ叩き落とされる。
腕で受けたはずの衝撃が、肩を、背骨を、腰を、脚を、一瞬で貫通していく。
空気が肺から押し出され、視界がぶれた。
そのまま彼女は、凄まじい勢いで地面へ激突した。
ドガンッ、と石床が大きく陥没し、ひび割れが蜘蛛の巣のように走る。
粉塵が舞い、破片が跳ね、衝突の余波が周囲に広がっていく。
土煙の中心で、ルシアは背中から地面に叩きつけられていた。
数秒。
ほんの数秒だけ、呼吸が止まる。
天井の色が、ぼやけて見えた。
背中が熱い。
腕が痺れる。
骨が砕けたわけではない。内臓が潰れたわけでもない。
だが、それでも確かに、身体の奥を刺すようなものがあった。
──痛い。
その感覚を認識した瞬間、ルシアの表情が、かすかに歪む。
(これが……痛み……)
口の中で、誰にも聞こえないほど小さく、その言葉を転がす。
(まだ、慣れない……!)
真祖竜であった頃の彼女にとって、痛みはあまりにも遠いものだった。
攻撃を受けても、それは“効かない”という結果にしかならない。
それが今は違う。
肉を持つ器が、ちゃんと衝撃を受け、神経がそれを伝えてくる。
不快だった。
鬱陶しかった。
ひどく煩わしい。
だが──それだけだ。
ルシアは奥歯を噛みしめると、バッと身を起こした。
砕けた白い床を踏みしめ、すぐさま立ち上がる。
白銀の髪に石粉が絡む。
唇の端を汚した埃を、手の甲で無造作に拭う。
その仕草はわずかに荒く、それでも瞳の奥はまだ死んでいなかった。
その様子を、メガロは宙から見下ろしていた。
「これはこれは……」
芝居がかった口調で、ゆるやかに首を傾げる。
「さしもの竜の真祖も、加護を受けただけの人間の少女まで力が落とされれば、無傷とはいかぬご様子で……」
愉快そうに、裾を摘まむような仕草で一礼する。
見世物を楽しむ観客のような、ぞっとする余裕。
だが、ヴェールの奥、その目だけは笑っていなかった。
(……何故だ?)
メガロの思考が、静かに軋む。
(今、ルシア・グレモルドの戦闘能力は、ブリジット・ノエリアのものへと成り代わっている。真祖竜の加護を受けた身とはいえ、所詮は人間……)
偽ルークと偽ビショップ。
あれらは、権能領域の中で模倣された“真祖竜そのものの力”だ。
本来であれば、人間の器で受けて無事で済むような代物ではない。
腕で防いだところで骨が砕け、地に叩きつけられれば内臓ごと潰れても不思議はない。
なのに。
(何故『痛みを感じる』程度で済んでいる……?)
メガロは声に出さぬまま、わずかに警戒を強めた。
眼前の少女は、確かに弱っている。
真祖竜の絶対性は削がれた。
それは間違いない。
にもかかわらず、折れていない。
肉体の耐久も、魔力の底も、想定より遥かに深い。
それは権能の失敗ではない。
むしろ、正しく働いているからこそ異様だった。
──ならば、何が誤算なのか。
答えは、まだ見えない。
だが、目の前の少女の中に宿る“何か”が、自分の想定を越えている。
その事実だけは、嫌でも理解できた。
一方、立ち上がったルシアは、荒くなりかけた呼吸を静かに整えていた。
背中に残る熱。
腕に残る鈍い痺れ。
不快な痛み。
けれど、それをひとつずつ確かめるように、彼女は自分の内側へ意識を潜らせる。
(……痛い、けど)
指先をわずかに動かす。
折れていない。
脚に力を込める。
踏ん張れる。
胸の奥の魔力も、まだ巡っている。
(耐えられないほどじゃない)
その結論が出た瞬間、ルシアの瞳に、冷たい光が戻る。
視線を落とし、自分の両手を見る。
人間の少女のものと大差ない、細い腕。
真祖竜の爪も、鱗も、膂力もない。
それでも、受け止めた。
それでも、壊れなかった。
(ブリジット・ノエリア……)
脳裏に、ひとりの少女の姿が浮かぶ。
不器用で、真っ直ぐで、ひどく人間らしい少女。
だが同時に、時折ぞっとするほどの底力を見せる存在。
ダンジョン・サバイバルで見た、あの眩しい生命力。
(彼女もまた、人間とは思えないほどの力を有していた、ということ)
そこでルシアの思考は、さらに一段深く沈む。
ブリジット自身の資質。
それもあるだろう。
けれど、それだけで説明がつく話ではない。
あの少女の中には、“誰か”の力が流れ込んでいる。
あまりにも異質で、あまりにも大きすぎる何かが。
ルシアはそっと目を細めた。
(これはやはり、彼女に力を与えた者……アルドの規格外の力が要因)
あの男。
真祖竜でありながら、人の形で笑い、料理をし、妙な優しさを当たり前のように振りまく存在。
掴みどころがなく、呆れるほど自然に、自分たちの常識の外側へ立っている男。
彼が与えた加護ならば。
彼が自覚なく流し込んだ力ならば。
この異様な耐久も、あり得なくはない。
そして、その考えは、ルシアの胸に別の感情を生んだ。
悔しさではない。
認めざるを得ない事実への、静かな納得。
そして、そこから導かれる戦いの目。
(おそらく、わたしが誰かに加護を与えても、ここまでの力は得られない)
それは、自嘲にも似た冷徹な自己分析だった。
真祖竜としての格や強さとは、また別の話だ。
あの男の持つ“何か”は、少し異常すぎる。
だが。
だからこそ。
ルシアは、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先には、白いヴェールを揺らしながら、静かに宙に浮くメガロ・スペクトラ。
愉悦と警戒を同時に抱えた、大罪魔王の姿。
ルシアの唇が、ほんの僅かに持ち上がる。
それは笑みというにはあまりに薄い、けれど確かな戦意の形だった。
(――となれば、まだわたしにも勝機は、ある)
力を完全に奪われたのではない。
条件を変えられただけだ。
真祖竜ではない身体。
ブリジット・ノエリアと同程度まで落とされた戦闘能力。
ならば、その器の中で勝てばいい。
折れないだけの強度がある。
立ち上がれるだけの脚がある。
そして何より、考える頭がある。
ルシアは砕けた石床の上で、背筋をすっと伸ばした。
白銀の髪がさらりと揺れ、その下の瞳が、真っ直ぐにメガロを射抜く。
痛みはまだ残っている。
腕も少し重い。
背中も熱い。
それでも彼女は、もうその感覚に飲まれてはいなかった。
むしろその不快さすら、自分がまだ戦える証拠だと、そう言わんばかりに。
メガロは、その視線を受けて、わずかに沈黙する。
眼下の少女は、確かに弱体化している。
だが、心までは削げていない。
むしろ、ひとつ叩いたことで、余計なものが落ち、芯だけが露わになったようにすら見えた。
白いヴェールの奥で、メガロの喉が、ひくりと鳴る。
砕けた白い大地の中心で、ルシアは何も言わず、ただ静かに立っていた。
その小さな身体には、もはや先ほどまでの戸惑いはない。
傷つくことを知ったばかりの少女が。
痛みを覚えたばかりの竜が。
それでもなお、次の一手を考えて、敵を見上げている。
その姿は、危うく、そしてひどく美しかった。
◇◆◇
ルシアは、砕けた石床の上で静かに息を整えながら、自分の内側へと意識を沈めていった。
痛みはまだ背に残っている。
腕にも、脚にも、鈍い痺れが絡みついていた。
けれど、その不快さを押し流すように、彼女は身体の奥深くを巡る力の流れをひとつずつ確かめていく。
自分のものではない力。
いや、正確には――自分のものではなくなった身体に、別の理屈で成立している力。
目を閉じるまでもなく、ルシアの意識にはひとりの少女の姿が浮かんでいた。
ダンジョン・サバイバルで見た、ブリジット・ノエリア。
無鉄砲で、真っ直ぐで、弱さも甘さも抱えた、いかにも人間らしい少女。
だがその内側には、明らかに人間の範疇からはみ出した何かがあった。
ルシアは己の腕をゆっくりと持ち上げ、指先から肩へ、胸へ、腹へと巡る魔力の濃度を探る。
すると、ぞくり、とした。
(……凄まじい)
その感想は、思わず心の中で零れたものだった。
見た目は人間の少女。
骨格も、筋肉のつき方も、魔力を収める器としては決して特別巨大ではない。
にもかかわらず、その内側には、常識外れの圧が眠っている。
(真祖竜ほどではないにしろ、ただの人間がここまでの魔力を内包するなんて……)
ルシアの銀の瞳が、すっと細くなる。
(……ラグナ以外では、初めて見た)
ただ多いだけではない。
質が違う。
魔力が、まるで“染み込んで”いる。
外から無理やり押し込まれたのではなく、長い時間をかけて身体の芯まで馴染み、血肉の一部に変わっているような濃さだった。
そこに宿っているものの正体を、ルシアはもう理解している。
アルド。
あの規格外の真祖竜が与えた加護。
その残滓どころか、本流に近いものが、この身体には脈打っていた。
そして、ルシアは気づく。
この力は、まだ眠ったままだと。
ブリジット本人ですら、おそらく十全には引き出せていない。
だが構造は分かる。
流し方も、圧縮の仕方も、魔力を肉体へ変換する手順も。
真祖竜である自分には、分かってしまう。
その唇が、かすかに動いた。
「──なるほど」
声は小さい。
だが、その響きにはもう戸惑いはなかった。
「出力を上げる方法は……こう」
その瞬間だった。
ルシアの額に、ぴくり、と銀の光が走る。
次の瞬間、皮膚を押し上げるようにして、二本の角がにょき、と生えた。
細く、美しく、月光を削って作ったような銀の角。
真祖竜の完全な姿には程遠い。けれど、それは確かに“竜の側”へ踏み込んだ証だった。
髪の根元がふわりと揺れ、周囲の空気がぴんと張り詰める。
砕けた床の砂粒が、かすかな魔力の震えに浮き上がった。
それを見たメガロの白いヴェールが、わずかに揺れる。
しかし、驚きを表に出すことなく、メガロは静かに"妬心幻鏡”を振るった。
「ならば、試して差し上げましょうぞ……その小賢しい足掻きが、どこまで通じるものか」
黒い偽ルークと偽ビショップが、同時に地を蹴る。
空気が悲鳴を上げた。
二体の巨影が左右から迫る。
偽ルークの大斧が、空ごと叩き割るような軌道で振り下ろされ、
偽ビショップの巨大なメイスが、ほとんど間を置かず頭上から落ちてくる。
その挟撃の中心で、ルシアは静かに息を吐いた。
そして、小さく呟く。
「……人の身体での体術、やったことない」
その言葉とは裏腹に、彼女の動きに迷いはなかった。
右足を半歩引く。
重心を深く落とす。
肩の力を抜き、腰をひねる。
どこか不格好で、けれど妙に理にかなった低い構え。
それは、先日アルドと刃を交えたとき、彼が取っていた構えを、ルシアなりに記憶の底から引きずり上げたものだった。
あの男は、真祖竜とは思えないほど“肉体の使い方”が上手かった。
無駄がなく、柔らかく、そして獰猛だった。
今なら少しだけ、その意味が分かる。
大斧とメイスが、ほぼ同時に死角を埋める。
次の瞬間、ルシアの身体が動いた。
ぐるり、と腰を回す。
白い脚がしなるように振り抜かれた。
回し蹴り。
細い足から放たれたとは思えない衝撃が、横合いから偽ビショップのメイスに叩き込まれる。
ガギィンッ!!
甲高い激突音が、空間を裂いた。
巨大なメイスが軌道ごと弾き飛ばされ、そのまま隣から振り下ろされていた偽ルークの大斧へ激突する。
二つの巨兵がぶつかり合い、火花と黒い魔力片が散った。
「──!」
無言のまま、二体の偽像が姿勢を崩す。
そのまま衝撃に押されるように、偽ルークと偽ビショップの巨体がまとめて横へ吹き飛んだ。
砕けた床を削り、壁際まで跳ね飛ばされる。
その光景を見たメガロの思考が、一瞬だけ止まる。
(……なっ!?)
白いヴェールの奥で、目が見開かれる。
(今の彼女は真祖竜に非ず、“真祖竜の加護”を受けただけの小娘……ブリジット・ノエリアに“成って”いるはず……! にも拘わらず、このパワーは……!?)
偽像をまとめて弾いた一撃。
単なる技量では説明がつかない。
肉体の出力が違う。
本来のブリジット・ノエリアが持つはずの限界値を、明らかに上回っている。
そして、その理由にも、すぐに辿り着く。
(本物の真祖竜だけあって、“真祖竜の加護”を本人以上に使いこなしている……!)
メガロの喉が、ひくりと鳴る。
(つまり今の彼女は、ブリジット・ノエリアが潜在能力を極限まで引き出した姿に等しいという事なれば……!)
その結論に至った瞬間、メガロの中で警戒がひとつ深くなる。
一方、ルシアはそんな敵の動揺など意にも介さなかった。
吹き飛ばされ、体勢を崩した偽ビショップの肩へ、軽やかに飛び乗る。
足場にしたその黒い巨体が、ぐらりと揺れる。
ルシアはその勢いのまま、視線の先――奥で宙に浮くメガロへ狙いを定めた。
「あなたは、勘違いしてる」
小さく、だがはっきりと、そう言う。
「力を落としたからって……勝てる相手まで変わるわけじゃない」
ドンッ! と床を蹴る。
偽ビショップの巨体を踏み台に、ルシアの身体が弾丸のように飛んだ。
銀髪が後ろへ流れ、額の二本角が白く閃く。
一直線に迫ってくるその姿に、メガロは即座に"妬心幻鏡”を振るった。
「──戻れ」
低い声とともに、宙のあちこちを漂っていた六つの輪が、一斉に呼び戻される。
白く鈍い光を放つ輪が、メガロの前へ幾重にも展開した。
ルシアの拳が、最初の一輪へ突き刺さる。
ガァンッ!!
鐘を打ったような轟音。
輪が大きく撓み、衝撃波が空気を押し広げる。
弾かれる前に、ルシアは身体を捻る。
肘打ち。膝蹴り。踵落とし。
拳を引き、また踏み込み、蹴りを返す。
それらの連撃には、どこか見覚えがあった。
型として洗練されているわけではない。
むしろ荒い。
だが、恐ろしく実戦的で、相手の防御の隙間をこじ開ける意志だけは明確だった。
アルドの動きだ。
ルシアは完璧に再現できてはいない。
けれど、自分よりはるかに小さな身体で巨大な力を扱っていた、あの男の理屈だけを掬い上げていた。
輪が一つ、ルシアの蹴りを受け止める。
その横から二つ目が飛来し、側頭部を狙う。
ルシアは首を傾けてかわし、空中で身を捻って反対の輪へ拳を叩き込む。
輪が防げば、彼女は次を打つ。
輪が弾けば、彼女はその反動を利用して別角度から潜り込む。
六つの輪は絶えず軌道を変え、壁のようにも刃のようにもなってメガロを守り、同時にルシアへ襲いかかる。
それをルシアは、拳と脚と身体捌きだけで渡り合っていた。
カン、ガン、ギィンッ、と激しい金属音が連続し、空中に火花が散る。
白い輪と銀の角。
黒い偽像と、くすんだ白の魔力。
その中心で、二人の攻防は一進一退のまま絡み合った。
ルシアの拳が一輪を弾けば、別の輪が脇腹を狙う。
彼女がそれを膝で受け流せば、後方から三つ目が迫る。
メガロは距離を保ったまま、六輪の軌道を指先ひとつで操り、じわじわとルシアの踏み込みを削いでいく。
そして、その最中だった。
メガロが、すう、と息を吐く。
「なるほど……」
その声音から、先ほどまでの愉悦が少しだけ薄れる。
「真祖竜としての力さえ奪ってしまえば、と考えていた愚禿が……浅はかでしたか……」
輪の一つがルシアの拳を受け止め、もう一つが彼女の足を払う。
ルシアは空中で体勢を立て直しながら、僅かに距離を取った。
メガロは静かに続ける。
「なれば──出し惜しみをしている場合ではありませぬな……」
その言葉と同時に、"妬心幻鏡”が異様な変化を始めた。
杖身の先端から、白い光がすう……と揺らぐ。
次の瞬間、魔人器そのものが、液体のように輪郭を失いながら、メガロの胸元へ吸い込まれていった。
スゥゥーーーッ……と、音もなく。
まるで最初から、その身体へ還るべきものだったかのように。
ルシアの瞳が鋭く細まる。
(……!?)
反射的に、空中で一歩引くように間合いを取る。
(“魔神器”を……体内に取り込んだ……?)
それは武器の収納などという生易しいものではなかった。
融合。あるいは、解放。
嫌な予感が、皮膚の下を走る。
次の瞬間だった。
ドゥン――ッ!!
重く濁った衝撃が、空間そのものを震わせた。
メガロの周囲から、くすんだ白色の魔力が噴き上がる。
それは神聖さに似ていながら、同時に腐臭のような不快さを伴っていた。
白いのに濁っている。
清らかなようで、底の奥にどろりとした感情が沈んでいる。
その光景に、ルシアの額の角がぴくりと震える。
メガロは、両腕をだらりと下げたまま、静かに呟いた。
「──“嫉妬”」
その瞬間、メガロの纏っていた白いヴェールが、自ら意思を持つ生き物のようにうねった。
布が捻じれ、裂け、細長く伸びる。
ローブの裾も袖も、音もなくほどけ、一本、また一本と白い蛇へ変わっていく。
細い。長い。
乳白色の鱗を持つ無数の蛇。
それらはメガロの身体へ絡みつき、まるで衣服を織るように全身を覆っていった。
脚を巻き、腰を締め、胴を包み、腕へ這い上がる。
顔にまで絡みつき、口元も頬も額も、すべてを白蛇たちが覆い隠す。
だが、それは醜悪でありながら、奇妙なほど神々しかった。
さらに背中からは、より太く、より長い蛇たちが何本も噴き出すように生えた。
それらは空中で絡み合い、広がり、幾重にも重なって、やがて翼のような形を作り上げる。
白蛇の翼。
天使の翼にも見える。
だが近くで見れば、それが無数の蛇の集合体であることは明らかで、ぞっとするほど不気味だった。
その周囲には、きらきらと光を反射する破片が舞い始める。
鏡の欠片のようでもあり、結晶のようでもあるそれらが、メガロの周囲をゆっくりと公転し、薄く冷たい光を撒き散らす。
空気が変わった。
さっきまでのメガロは、まだ“魔王”という枠の中にいた。
だが今、目の前にいるそれは、もっと感情そのものに近い何かだ。
嫉妬という醜く濁った情念が、神聖さの仮面を被って顕現した怪物。
ルシアは、その異形を見上げたまま、無意識に息を止めていた。
銀の瞳に、緊張と、それでも消えぬ戦意が宿る。
そしてぽつりと、呟く。
「それが……この世界の“大罪魔王”の、奥の手……」
声は小さい。
けれど、その中には確かな理解があった。
今までのメガロとは、もう別物だと。
ここから先は、本当の意味での魔王戦になるのだと。
白蛇の翼をゆるやかに広げながら、メガロはさらに高く宙へ浮かび上がる。
その姿は美しい。
ひどく美しい。
だからこそ、なおさら気味が悪い。
白蛇に覆われた顔の奥から、くぐもった声が響いた。
「さあ……」
両手をゆっくりと広げる。
まるで祝福でも与える司祭のような仕草で。
「貴女様の心の奥に潜む“嫉妬”……」
蛇の翼が、ざわり、と鳴る。
鏡片がきらめき、くすんだ白の魔力が空に染み出していく。
「愚禿が解放して差し上げる所存なれば……」
その声はやわらかい。
しかし、含まれているものは救済ではない。
他者の心にある醜さをこじ開け、抉り出し、それを力に変える魔の囁きだ。
ルシアは答えない。
ただ、砕けた大地の上で静かに足を開き、身を低くした。
額の二本角が白く光り、銀髪が揺れる。
痛みも、痺れも、もう意識の外へ押しやられている。
彼女の瞳はまっすぐに、異形と化したメガロ・スペクトラだけを捉えていた。




