第309話 ルシア vs. メガロ・スペクトラ② ──竜の真祖に非ず──
白い権能領域の天蓋に刻まれた六芒の魔法陣が、どろりと黒く濁っていく。
先ほどまで幾何学的な光を保っていたそれは、まるで底なしの沼を上空に貼り付けたみたいに、不快な重さを帯び始めていた。
澄んだ白を侵食する黒。その境界は曖昧で、見ているだけで胸の奥がざわつく。
そして次の瞬間──
落ちてきた。
一つや二つではない。
大勢の黒い人影が、力の抜けた死体のようにぐにゃりと脱力したまま、中空の魔法陣から次々と降り注いできたのだ。
頭から落ちる者。
腕をぶらんと垂らしたまま落ちる者。
膝が逆に折れ曲がって見えるほど不自然な角度で落ちる者。
顔らしき輪郭はあるのに、そこに表情はなく、ただ空っぽの器だけが重力に従って投げ落とされてくるような光景だった。
黒い。
けれど完全な影ではない。
その輪郭の奥に、確かに“元は人であった”気配が残っている。
『オオオオオ……』
『羨マシイ……』
『欲シイ……』
『何故オ前ダケ……』
断末魔とも呪詛ともつかない声が、白い空間のあちこちで反響する。
ルシアは、その異様な雨を見上げたまま、静かに目を細めた。
最初はただの黒い亡者の群れにしか見えなかった。だが、次の瞬間、彼女の瞳が一人の輪郭を捉える。
「……」
落ちてくる人影の中に、見覚えのある顔が混じっていた。
ルセリア中央大学の編入試験で見かけた青年。
受験番号014番──リニア・アシュフォード。
さらに、その少し後方。
予選会で優勝候補第三位と呼ばれていた、ジュナザードの皇子。
ザイード・ジュナザーン。
輪郭は黒く濁っている。
表情も、生気もない。
けれど、その骨格も髪の形も、倒れ込む姿の癖も、ルシアの記憶は間違いなくそれを“その人物”だと告げていた。
ルシアの無表情が、ほんの僅かにだけ固くなる。
「彼らは、確か……」
その呟きに応えるように、メガロ・スペクトラの静かな声が流れた。
「ほう……やはり貴女からは、彼らについての記憶は失われてはおらぬのですね」
白いヴェールの奥、見えない顔が微笑んだ気配がする。
「流石は“魂の調律者”、真祖竜なれば……」
ルシアは目を離さない。
降り注ぐ黒影よりも、今はこの魔王の言葉の方が危険だと、本能が告げていた。
メガロは、”妬心幻鏡“の先端に付いた鏡をゆるりと揺らしながら続ける。
「その者達は、他者への嫉妬に溺れ……力を求めた者達」
黒い人影の一つが、床すれすれでぴたりと止まる。
他の影たちも、まるで見えない糸で操られているように中空で動きを鈍らせていく。
「その代償として、魂は愚禿の支配下に置かれ……“記憶”による相互認識の輪廻から外れる」
その説明はあまりに静かだった。
まるで、庭の花の育て方でも語るみたいに穏やかで、だからこそ不気味だった。
「なればこそ、厄介なのですよ」
メガロの声が、少しだけ低くなる。
「貴女がたの様な……愚禿が権能の理から外れた存在というのは……」
トン。
魔神器──"妬心幻鏡"の石突きが、白い地面を軽く叩いた。
その小さな音を合図に、空中で止まっていた黒い人影たちが、一斉に頭をこちらへ向けた。
『オオオオオオオオ……!!』
今度は先ほどまでの呻きとは明らかに違う。
飢えた亡者が餌を見つけた時のような、濁った執念がそこに乗っていた。
次の瞬間、黒い人影の群れがルシアへ向かって殺到する。
足を使って走るというより、地面を這い、跳ね、転がり、倒れ込む勢いを無理やり前進へ変えたような動きだった。
人であった頃の理性も体裁も捨て去った、ただ“羨望”だけで突っ込んでくる塊。
その光景を前にしても、ルシアの顔に大きな動揺はない。
(──こんなもので、わたしがダメージを受けるとは到底思えない)
真祖竜としての絶対的な感覚が、そう告げている。
だが。
(だけど……こいつは得体が知れない。注意は必要)
そこだけは、決して緩めない。
ルシアの指先が、見えない糸を操るように静かに動いた。
その瞬間、ルークが前へ出る。
白銀の戦士は、一切の躊躇なく巨大な戦斧を構えた。
迫る黒い群れ。
その先頭が、リニアの顔をした影だったとしても、ルークの動きには揺らぎがない。命令は絶対だ。
横一文字。
ズパァン!!
白い空間を裂くような鋭い斬撃音が轟いた。
ルークの戦斧が描いた軌跡に沿って、黒い人影たちの上半身と下半身がずれ、次の瞬間には何十という影が一斉に真っ二つになっていた。
斬られた影たちの断面からは血も臓物も零れない。
代わりに、濁った黒い粒子がぶわっと噴き出し、空中へ霧散していく。
だが、それだけでは終わらない。
いつの間にか、ビショップが宙へ飛び上がっていた。
白銀の法衣めいた装甲を揺らし、上空から黒い群れの中心へ、巨大なメイスを叩き落とす。
ドゴォォォンッ!!
着弾。
衝撃は一点で終わらず、同心円状の衝撃波となって白い床の上を駆け抜けた。
空気が震える。
黒い影たちがまとめて吹き飛ばされる。
真っ二つになっていた影も、まだ原型を保っていた影も、まとめて壁のない空間の彼方へと弾き飛ばされ、黒い破片のように散った。
一瞬で、周囲の大半の黒影が薙ぎ払われる。
ルシアはその様子を見て、静かに分析する。
(やはり、こいつの力は、わたしよりは下回る)
それは確信だった。
いかに大罪魔王であろうと、真正面からの力比べで真祖竜に届く相手ではない。
だが、だからこそ余計に不自然だ。
(ならば……狙いは何?)
ルシアの視線が、ゆっくりとメガロへ向く。
メガロは、その惨状を見てなお微塵も慌てない。
むしろ、白いヴェールの向こうで恍惚としているようにさえ見えた。
「いやはや……」
その声には、薄い笑いが滲んでいた。
「流石は竜の真祖の力。愚禿の力など、到底及ぶべくもなく……」
六つの輪が、鏡の周囲で静かに回る。
その軌道は穏やかだ。まるでこの状況すら想定の内だと言わんばかりに。
「ああ、羨ましい……妬ましい」
その言葉だけが、やけに粘ついて耳に残る。
「──“皆”も、同じ思いなれば……」
その瞬間だった。
先ほどルークとビショップによって斬り裂かれ、吹き飛ばされたはずの黒い人影たちが、再び蠢き始める。
床に散らばっていた黒い断片が、ぐちゅり、と生き物のように寄り集まる。
真っ二つにされた胴体が、自らを求めるように這い寄り、別の影の腕を取り込み、別の影の脚と癒着していく。
『オオオオオオ……』
『ソノ、力……』
『妬マシイ……』
『嫉マシイ……!!』
呻きが重なり、低く唸る。
いくつもの黒影が、互いを食い合うように、あるいは抱き合うように重なっていく。
人の輪郭が崩れ、巨大な塊になり、やがてそこから新しい形が押し出され始める。
ルシアの目が、初めてはっきりと見開かれた。
「……!?」
黒い塊は、二体の巨人の姿を取っていた。
一体は、白銀のルークと同じく、斧を持つ戦士の形。
もう一体は、ビショップを模した、重厚な打撃武器を携えた僧兵のような姿。
だが、どちらも本物とはまるで違う。
黒い。
全身が、嫉妬と怨嗟を煮詰めて固めたような濁った黒でできている。
関節は不自然に捻じれ、装甲の輪郭は歪み、兜の奥には空洞しかない。
それでも、そのシルエットだけは、確かにルークとビショップのものだった。
偽ルーク。偽ビショップ。
メガロは、その禍々しい模造品たちを愛でるように見上げ、静かに告げる。
「愚禿の権能領域においては……“他人を羨む力”は、形を成す」
鏡の表面に、黒い巨人たちが映る。
「誰もが、憧れの対象に“成る”ことが出来るのです……」
その声音は穏やかだ。
だが語られている内容は、あまりにも冒涜的だった。
羨望を抱き、嫉妬に沈み。
自我を削りながら、それでも“あれになりたい”と願った成れの果て。
それが今、ルシア自身の傀儡を模した黒い怪物となって眼前に立っている。
ルシアは何も言わない。
ただ、静かにその偽ルークと偽ビショップを見つめた。
眠たげな瞳の奥で、銀の光がじわりと深く沈んでいく。
相手の力が自分より下回っていることに変わりはない。
だが、この魔王は、力の優劣だけで語れる相手ではない。
そのことを、ルシアはようやくはっきりと理解し始めていた。
◇◆◇
黒い偽ルークと偽ビショップを前にしても、ルシアの表情は大きくは変わらなかった。
ただ、眠たげだった瞳の奥にだけ、冷えた銀色の光が宿る。
「──ニセモノは、所詮ニセモノ」
静かな声。
白い権能領域の中で、その一言だけが妙に硬質に響いた。
「ホンモノの力には、到底及ばない」
言い切ると同時に、ルシアはためらいなくマフラーを顎の下までずらした。
白い喉元が、白い空間の中にふっと浮かぶ。
次の瞬間、その小さな口の中へ、彼女は自ら指を差し入れた。
躊躇はない。
痛みへの逡巡もない。
まるで、引き出しの中から必要な道具を取り出すような、あまりにも自然な動作だった。
ぬらりと濡れた指先が、奥へと潜る。
そして──
ぐ、と。
骨を捉える感触。
ルシアは、口の中から奥歯を一本、引き抜いた。
普通の人間なら悲鳴を上げ、血を流し、顔を歪めて倒れ込むような行為。
だが彼女は、眉一つ動かさない。
指先につままれた白い歯は、真珠のように小さく、しかしそこに込められた魔力だけは、ひどく濃かった。
それは単なる歯ではない。
真祖竜の身体を構成する一部。
すなわち、世界の理そのものに近い素材。
ルシアがその歯を前へ差し出した瞬間、それはほろりと崩れるように光の粒子へ変わった。
白銀の粒子。
雪でもない。星屑でもない。
もっと鋭く、もっと硬質で、もっと冷たい輝き。
粒子は空中へふわりと舞い上がり、やがて人の輪郭を象り始める。
腕。肩。胴。脚。
幾つもの細い線が絡まり合い、まだ名を持たぬ“何か”を形作っていく。
同時に、ルシアの左右に控えていたルークとビショップも、主の意思に呼応するように静かに崩れ始めた。
白銀の戦士たちの外殻がほどけ、巨体が一気に粒子へと還元されていく。
ルークの斧が、ビショップのメイスが、腕が、肩が、胸部が、すべて眩い光となって空間へ溶けていく。
ルシアは再びマフラーを口元まで引き上げた。
それから、糸を操るように指先を動かす。
「”傀儡演舞”」
囁くような声。
そして続けて、
「──”極光円舞”」
その名を呼んだ瞬間、白銀の粒子たちが一斉に脈動した。
ルシアの周囲に、十四の人影が立ち上がろうとする。
一体、二体、三体。
無数の粒子が集束し、戦士の輪郭を描く。
それぞれが異なる姿、異なる武装、異なる役割を持つはずの傀儡たち。
それはルシアの持つ傀儡演舞の中でも、より高位の展開。
白銀の極光が円舞するように、多数の傀儡が一斉に顕現する殲滅布陣。
普通なら、それで終わるはずだった。
だが。
パァン!
乾いた音がした。
あまりにも、軽い音だった。
まるで、薄い膜が破れるような。
シャボン玉が弾けるような。
力の塊が生まれきる前に、世界から拒絶されたような。
十四の人影は、完全な形を取る寸前で、霧のように散った。
光の粒子が一瞬だけ空中へ舞い、それきり何も残さず消えていく。
ルシアの指が、ぴたりと止まった。
「な……っ!?」
その声に、初めて明確な驚きの色が混じる。
ほんの短い、掠れた音。
けれど、それだけで十分だった。
今、この事態が、彼女にとって完全に想定外であることが分かる。
ルシアは咄嗟に自らの内側へ意識を向けた。
魔力の流れを探る。
いつもなら、全身を満たしているはずの膨大な銀色の奔流。
真祖竜としての絶対的な出力。
それが、明らかに落ちていた。
(……魔力出力が、落ちている)
それだけじゃない。
ルシアの瞳が、さらに大きく見開かれる。
(違う……)
もっと深いところ。
自身の根幹を成す魔力の“質”そのものが、変質している。
波長。
生物は、それぞれ固有の魔力波長を持つ。
アルドにはアルドの。
ルシアにはルシアの。
その個体をその個体たらしめている、魂の指紋のようなものだ。
今、ルシアの中で流れている魔力は、その波長自体が書き換えられていた。
(これは……)
ぞわり、と背筋を冷たいものが走る。
(アルドの魔力波長……?)
一瞬そう思う。
だが、次の瞬間には否定した。
違う。
似ている。だが違う。
アルドの魔力波長は、もっと深く、もっと暴力的で、もっと完璧に近い。
こんな弱いものじゃない。
こんな不安定なものじゃない。
ならこれは何だ。
ルシアの思考がそこに辿り着くより早く、目の前の空気が唸った。
黒い偽ビショップ。
巨大なメイスを振りかぶったその異形が、すでに目前へ迫っていたのだ。
「……!!」
ルシアは反射的に腕を上げる。
ガキィィィン!!
金属同士が正面から激突したような甲高い音が、白い権能領域に炸裂した。
偽ビショップのメイスが、ルシアの上げた腕へ叩きつけられる。
本来なら、そんなものは意味を成さない。
真祖竜の肉体は不壊。
この世界のあらゆる攻撃を受け流す、絶対の器。
そのはずだった。
なのに。
ルシアの腕に、ほんの僅かに、しかし確かに──“痛み”が走った。
「……っ」
呼吸が、止まる。
それは鋭い裂傷でも、骨が砕ける重圧でもない。
もっと初歩的で、もっと根源的なものだった。
熱。痺れ。嫌悪感。
そして遅れてくる理解。
(これは……)
ルシアの瞳が震える。
(これが、“痛み”……?)
今まで、概念としては知っていた。
他者が苦しむのを見たこともある。
だが、自分の肉体に、それが実感として走ったことはなかった。
真祖竜である自分が。
絶対に傷つかぬはずの自分が。
(ダメージを……受けた……!?)
その事実が、物理的な衝撃以上に、彼女の内側を激しく揺らした。
偽ビショップは一撃で終わらない。
ぐにゃりと歪んだ腕を再び持ち上げ、二撃目を叩き込もうとする。
だが、その直前。
メガロ・スペクトラの声が、静かに割って入った。
「先も申した通り……」
白いヴェールの魔王は、まるで講義でもするような穏やかさで言う。
「愚禿の権能領域においては、羨む心は、形を成し、現実となる……」
六つの輪が、鏡の周囲でゆるやかに回っている。
その鏡面には、腕を押さえるルシアの姿が小さく映っていた。
「幼き竜の真祖よ」
その呼びかけは、妙に優しかった。
優しいからこそ、底知れなく気味が悪い。
「貴女は一体……誰を羨んだのです……?」
その問いが投げ込まれた瞬間、ルシアの思考の底で、何かが弾けた。
誰を。
羨んだ。
その言葉に引きずり出されるように、ある顔が頭の中を過る。
金色の髪。
柔らかい笑顔。
魔導掲示板の映像。
アルドと並んで笑っていた少女。
ブリジット。
「まさか……!?」
ルシアの声が、初めて大きく揺れる。
その動揺を、メガロは見逃さなかった。
白いヴェールの奥で、静かに、しかしはっきりと嗤う気配。
「今の貴女は竜の真祖に非ず……」
その声音は、判決文を読み上げる聖職者のように冷ややかだった。
「真祖竜の加護を受けただけの……」
「ちっぽけな、人間の少女なれば……」
その言葉が落ちた瞬間、ルシアの中で、今まで繋がらなかった断片が一気に繋がった。
羨望。嫉妬。
権能。波長の変質。
痛み。
ブリジットを羨ましいと思った、その一瞬。
あの心の揺らぎを起点に、メガロは“今の自分”を作り替えたのだ。
真祖竜のルシアではなく。
“真祖竜の加護を受けた人間の少女”として。
そしてその結果、彼女は初めて“痛み”を知った。
白い権能領域の中で。
嫉妬の魔王は、ようやく本当に牙を剥いたのだった。




