第308話 ルシア vs. メガロ・スペクトラ① ──超常決戦、開幕──
真っ白な権能領域の中で、ルシアは一歩も動かなかった。
白以外の色が存在しないはずのその空間で、彼女の黒いケープだけが妙に濃く浮いて見える。
眠たげな半眼。感情の読めない顔。
けれど、その無表情の奥では、冷たい思考が恐ろしい速度で巡っていた。
(──あり得ない)
ルシアは、目の前に浮かぶ白いヴェールの魔王を見据えたまま、内心でそう断じる。
(わたしは、人間に化けてエルディナ王国に入ってから今日まで、魔力探知は怠らなかった)
それは真祖竜としての本能に近い警戒だった。
この国に来てからというもの、ルシアは眠そうな顔の裏で、ずっと周囲の魔力の流れを観測し続けていた。
王都ルセリアの雑多な人の流れ、学園に集う学生たち、王族、貴族、魔獣、魔導具──それらの気配を、無意識の呼吸のように拾い続けていたのだ。
(その中に、大罪魔王の反応など、見つけられなかった)
見落とすはずがない。
少なくとも、“真祖竜が本気で探して見つからない”という事実そのものが異常だった。
なのに。
(……こいつは)
ルシアの瞳が、ほんの僅かに細まる。
(この大罪魔王は、逆にわたしのことを観測していた……?)
その結論に至った瞬間、白いヴェールの向こうから、静かな声が流れた。
「愚禿が何故、貴女を知っていたのか……疑問にお思いのご様子ですね」
まるで、こちらの思考を読んだみたいなタイミングだった。
ルシアは何も答えない。
ただ、無表情のままメガロ・スペクトラを見る。
白いヴェール。白いローブ。先端に鏡と六つの輪を備えた杖。
その全てが清廉な白で統一されているのに、醸し出される印象は不気味としか言いようがなかった。
清らかさを装って、内側に濁った感情を隠しているような、そんな白だ。
メガロは、空中に浮かんだまま、緩やかに首を傾げた。
「──今、この国……エルディナ王国は、愚禿の演出する舞台なれば……」
言葉と共に、彼の周囲に立ち上る幻影が揺らぐ。
誰かの横顔が浮かび、消え、泣く女の影が生まれ、溶け、見知らぬ子どもの笑顔が歪んで霧散する。
すべてが一瞬ずつで、掴む前に消えていく。
「貴女や、“銀の新星”……アルド・ラクシズの様なイレギュラーな演者には」
そこでメガロは、宙に浮いたまま、実に恭しく深く一礼した。
「ご退場、もしくは……配役替えを願いたく……」
その言葉に、ルシアの眠たげな瞳が、僅かに見開かれる。
「……!」
表情は崩れない。
だが、その一瞬の反応だけで十分だった。
(──アルドのことまで、知っている……?)
胸の内側で、警戒がさらに一段上がる。
アルドが真祖竜であること。
この国に人間として潜り込んでいること。
それを知る者など、本来そう多くない。
ましてや、ただ知っているだけではない。
この魔王は、自分たちを“舞台の外から見ていた”口ぶりだった。
(こいつは、一体……?)
ルシアの袖の中で、指先がわずかに動く。
メガロはゆっくりと身を起こした。ヴェールの奥に顔は見えない。見えないはずなのに、そこから確かに微笑が滲んだ気配がした。
「──ですが」
その声は、静かだった。
静かなのに、ぬめりつくように耳へ絡みつく。
「貴女やアルド・ラクシズの様な存在と事を構えるのは、愚禿の望むところではございません」
するり、と白い袖が動く。
メガロが片手を差し出した。
白い手袋に包まれたその手は、まるで舞踏会へ誘う紳士のように穏やかで、しかし同時に底知れない悪意を孕んでいる。
「いかがでしょう」
六つの輪が、杖の周囲でかすかに鳴動する。
「我らの同志になりませぬか?」
ルシアは、その差し出された手を、感情のない目で見下ろした。
ほんの短い沈黙。
それから、彼女は淡々と口を開く。
「──興味無い」
静かな声だった。
だが、その中には一切の揺らぎがなかった。
「なぜなら……」
眠たげな目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「──お前は、今ここでわたしが消すから」
白い空間に、その言葉だけが冷たく落ちる。
メガロは動かない。
ルシアはさらに続けた。
「よく分からないけど……お前は、敵」
言い切る。
「わたしにとっても、アルドにとっても」
その名前を口にする時だけ、ほんの僅かに、声の芯が強くなった。
「それは、分かった」
そう呟くと同時に、ルシアは両手を袖の中から出した。
細い指先から、ぶらん、と二体の操り人形が垂れ下がる。
白銀の小さな人形。
普段なら玩具にしか見えないそれが、この空間では異様な圧を放っていた。糸は見えない。
だが、そこに繋がれた魔力の線が、空間そのものを緊張させている。
メガロはその光景を見て、ゆっくりと、そしてどこか芝居がかった動作で再び礼をした。
「それはそれは……遺憾千万なれば……」
その瞬間だった。
メガロの手元にあった杖が、ふわりと浮き上がる。
ひとりでに回転しながら、主の前方へ滑り出る。
同時に、杖の先端に付いた六つの輪も、まるで目覚めた獣のようにかすかに震えた。次いで、それぞれが独立した意思を持つかのように、杖の周囲を円環軌道で回り始める。
ギィィ……ン、と。
音とも耳鳴りともつかない、不快な振動が白い空間を掠めた。
ルシアはその様子を見つめながら、内心で冷静に分析する。
(──あれが、この魔王の”魔神器”……)
大罪魔王のみが持つ、超常の権能具。
単なる武器ではない。
世界そのものに干渉するための“鍵”。
真祖竜であるルシアでさえ、それを前にして無視はできなかった。
メガロは不気味に宙へ浮かんだまま、両手を胸の前で組む。
その姿は祈る僧にも見えるし、処刑台の前で観客へ礼をする役者にも見えた。
そして、ゆっくりと告げる。
「”魔神器”……」
六つの輪が、回転速度を上げる。
「“妬心幻鏡”……!」
名を呼ばれた瞬間、杖の先端に付いた鏡が、ぬらりと不気味な光を放った。
それはただの反射ではない。
鏡面の中に、白い空間とは別の何かが映り込んでいる。
泣き顔。笑顔。憎悪。羨望。
誰かの感情が幾重にも折り重なり、磨り潰され、光に変えられているような、そんな嫌な輝きだった。
ルシアの袖の中で、人形を握る指先にさらに力がこもる。
メガロは笑っている。
ヴェールで顔は見えない。
なのに確かに、“嫉妬”という感情だけが、その場に満ち始めていた。
白い空間の中で。
真祖竜の幼竜と、嫉妬の魔王。
二つの超常が、いよいよ真正面から牙を剥こうとしていた。
◇◆◇
白い権能領域の中で、ルシアは静かにメガロ・スペクトラを見据えていた。
眠たげに伏せられていた瞼が、ほんのわずかに持ち上がる。
その奥にある瞳だけが、一瞬、竜種特有の冷たい光を帯びた。
「──大罪魔王。この世界では最強格かもしれないけど」
淡々とした声。
感情の起伏は乏しい。だが、その一言には、相手を測り終えた者だけが持つ確信があった。
「……わたしが『何者』か知った上で、勝てると思っているのなら……それは、愚かな判断。」
その瞬間だった。
ルシアの両手の指先にぶら下がっていた二体の操り人形が、ぴくり、と命を吹き込まれたように震える。
それと同時に、彼女の周囲の空気が変わった。
白い空間を埋め尽くす静寂の中に、凄まじく濃密な銀色の魔力が流れ込み始める。
いや、流れ込むというより、押し広がっていく。
「”傀儡演舞”」
ルシアの声が、鈴を転がすように静かに響いた。
その声を合図に、人形たちが銀光を放つ。
最初は小さな灯だった。
それが次の瞬間には目を細めたくなるほどの強い閃光となり、眩い銀の粒子を撒き散らしながら急速に膨張していく。
ギィ……ン、と金属とも骨ともつかぬ音が鳴った。
人形の四肢が伸びる。
関節が増える。胴が広がり、装甲のような銀の外殻が形成されていく。
頭部には兜めいた意匠が生まれ、肩から腕、脚部に至るまで、神殿の守護像のように荘厳で、同時に戦場の兵器のような無慈悲さを纏っていく。
やがて、ルシアの前に並び立ったのは、二体の白銀の戦士だった。
“ルーク”そして、“ビショップ”。
どちらも人の形をしていながら、人ではない。
血も、息も、鼓動も持たない。
ただ、真祖竜の魔力だけを宿して動く、白銀の傀儡。
彼らが完全な形を取った瞬間、ルシアから溢れ出した銀色の魔力が、嫉妬の魔王の権能空間そのものを圧迫した。
白だけで満たされていた世界に、銀が満ちる。
それは単なる光ではない。
“格”の違いを、そのまま色にしてぶつけるような魔力だった。
メガロの周囲を舞っていた幻影たちが、その圧に当てられたように一瞬揺らぐ。
泣き顔。笑顔。憎悪。羨望。
それらが砂絵のように崩れ、また再構築される。
ルシアはそんな揺らぎを無視して、メガロだけを見ていた。
(“特異点”は、統覇戦に関わっている)
彼女の脳裏に、遥か上位存在たるマーテラクシアの言葉が蘇る。
予言。示唆。断片的な警告。
(このタイミングで現れた大罪魔王が、無関係とは思えない)
真祖竜にとって、偶然とは概して取るに足らない現象だ。
だが、この世界で最近起きている一連の異変は、偶然で片づけるにはあまりに出来すぎている。
アルド。ブリジット。
統覇戦。学園。王家。
そして今、この嫉妬の魔王。
線が繋がり始めている。
(こいつは……ここで捕獲し、事情を聞き出す必要がある)
ルシアの手元で、見えない魔力の糸が震える。
それに呼応して、ルークとビショップが一歩、前へ出た。
メガロは、その圧倒的な銀の魔力を浴びながら、少しだけわざとらしく肩を震わせた。
「おお……」
白いヴェールの奥から、恍惚にも似た吐息が零れる。
「これが、真祖竜の魔力……!」
六つの輪が、かすかに震える。
鏡の表面に、白と銀の光が歪んで映り込む。
「幼竜とはいえ、これほどの力を持つ存在……愚禿の力で勝負になどなろう筈も無く……」
その言い回しは、敗北を認める者のそれに近い。
だが、そこには恐怖よりも、別の色が混ざっていた。
メガロは両腕を広げるようにして、うっとりとした声で続ける。
「ああ……なんと美しく、なんと完全な……」
白いヴェールが揺れる。
見えない顔が、笑っている気配がした。
「実に、妬ましい……」
その一言に、ルシアの目がわずかに細まった。
(!?)
今、この魔王は何と言った。
真祖竜。幼竜。
それは単なる推測ではない。
知っている言い方だった。
(やはり、わたし達が真祖竜だと、知っている……?)
警戒がさらに引き上がる。
その直後だった。
メガロの前で回転していた六つの輪が、唐突に軌道を変えた。
ヒュンッ、と甲高い音を立て、六条の光輪となってルシアたちへ襲いかかる。
光の刃。
いや、あれは輪そのものが切断の意思を持って飛んでいる。
一つはルシアの首筋へ。
一つはルークの胸部へ。
一つはビショップの脚部へ。
残る三つは軌道を変えながら、それぞれの死角を狙って奔る。
だが――
キィィィィンッ!!
耳障りな金属音が、白い権能領域に弾けた。
ルシアの肩口を狙った光輪は、彼女の皮膚に触れた瞬間、まるで絶対に傷つかない鉱石へ打ち付けたかのように弾き返される。
同時に、ルークとビショップへ迫った光輪も、白銀の外殻に火花を散らして逸れた。
傷は一つもつかない。
ルシアは一歩も動かず、淡々と告げる。
「無駄」
短い一言だった。
「わたしに傷を付けることは、お前には出来ない。」
事実だけを述べる声。
そこには慢心も虚勢もない。
ただ、世界の側が定めた理を、そのまま口にしているだけだった。
メガロはその結果を見ても取り乱さない。
むしろ、予想通りとでも言いたげに、また一礼する。
「ええ、存じておりますとも」
静かな声。
「竜の真祖とは、”不壊“の存在」
その言葉に、白い空間そのものが僅かに軋んだように感じられた。
「愚禿ごときの攻撃で、その身体に傷を作ろうなどという思い上がりは、最初からありませぬ……」
ルシアは、そこで初めて違和感を明確に捉えた。
(──真祖竜にダメージを与えられない事を承知で、わたしに挑んできた……?)
ならば、この攻撃は確認だ。
あるいは“布石”。
ルシアの眉が、ほんの僅かに動く。
(ならば、こいつの狙いは一体……?)
その疑問に答えるように、白い空間に異変が起きていた。
さっき弾き返されたはずの六つの光輪。
それらは消えていなかった。
いつの間にか、ルシアを中心として、上空の六方向へ配置されている。
一つ、二つ、三つ。
正面、背後、左右、斜め。
見上げれば、それらはぴたりと等間隔を保ち、六芒星を描くように空中で静止していた。
ルシアの瞳が、初めてはっきりと動く。
「……!」
ハッと顔を上げる。
光輪と光輪のあいだを、見えない線が繋いでいく。
淡い白光が走り、幾何学的な紋様が虚空に描かれる。
それは魔法陣だった。
だが、ルシアの知るいかなる術式とも違う。
もっと感情的で、もっと不快で、もっと“精神”に近い何か。
メガロは、その様子を見上げるルシアへ、静かに告げた。
「──故にこそ、この権能空間に貴女を招待した運びなれば……」
その声と同時に、メガロは”魔神器”──"妬心幻鏡"を、白い地面へと、トン、と突き立てた。
音は小さい。
だがその一撃は、空間の奥深くまで波紋のように広がっていく。
そして、メガロは詠うように呟いた。
「”持たざる者達の行進”」
その瞬間、六芒星の魔法陣が、黒く澱んだ。
白い権能領域の中で、そこだけがインクを零したように闇へ染まっていく。
いや、闇というより、底なしの感情の泥だ。
どろり、と。
その魔法陣の内側から、何かが落ちてくる。
最初は、影に見えた。
次いで、それが“人の形”をしていると分かる。
黒い人影が、大勢。
力が抜け切った死体が、頭から地面へ落ちてくるような、不自然で不快な軌道。
手足はだらりと垂れ、首は折れたように傾き、けれど完全な骸ではない。
輪郭は人だ。
なのに、顔が曖昧だ。
一体が落ちる。
二体、三体、十体。
その合間に、微かな声が混じる。
『どうして……』
『いいな……』
『羨ましい……』
『どうして、お前だけ……』
囁きとも断末魔ともつかない感情の断片が、黒い人影と一緒に降り注ぐ。
ルシアは、それを見ても表情を大きくは変えなかった。
だが、さすがに今度は少しだけ警戒を強める。
何が落ちてこようと、自分は壊れない。
けれど、これは単なる物理攻撃ではない。
感情そのものが形を持って押し寄せてくるような、不気味な技だった。
それでも、ルシアの口から出た言葉は、あくまで静かだった。
「何が来ようと……真祖竜の力、思い知らせる」
彼女の両手が動く。
操り人形を繰るように、指先がしなやかに空を切る。
その見えない糸に従い、ルークとビショップが前へ出た。
白銀の戦士たちが、空から飛来する“持たざる者達”へ向けて構えを取る。
銀と黒。
静寂と嫉妬と殺意。
それらがぶつかり合う直前の、一瞬の張り詰めた空気。
嫉妬の魔王の権能空間で、ついに戦いの火蓋が切って落とされた。




