第290話 もう一人の"真祖竜"。
渦に飲み込まれた直後──
足元の感覚が、ふっと消えた。
落下でも浮遊でもない。
上下の概念そのものが、溶け落ちたみたいな感覚。
次の瞬間、俺は立っていた。
真っ白い空間に。
どこまでも、白。
地平線も、天井も、壁も分からない。光源すら存在しないのに、影が落ちない。音も、風も、匂いもない。ただ、自分の呼吸音だけが、やけに大きく耳に残る。
「……あー」
思わず、声を出してみる。
反響はない。吸い込まれるように、音が消えた。
(……なるほど)
胸の奥で、嫌なほど確信が芽生える。
(俺の“竜渦”の亜空間とは、少し違う。でも……間違いない)
これは、“竜渦”と繋がった亜空間だ。
二つの時間や空間を飛び越えて繋ぐための中継場所。あのスキルの延長線。
(ってことは……)
背中に、じっとりと汗が浮かぶ。
(俺をここに引きずり込んだのは──俺以外の、真祖竜……?)
いやいやいや。そんな訳ない。
あの怠け者の極みみたいな連中が?
何十年も動物園のワニみたいにずーっと口開けてボーッとしてるだけの、彼らが?
悠天環から?わざわざ?地上に?
ないない。あるはずない。
そう思おうとした瞬間。
白い世界の、正面。
空間そのものが、きしむように歪んだ。
ぐにゃり、と。
闇色の渦が、音もなく開く。
さっきまで俺を飲み込んだのと、よく似た──
でも、もっと静かで、もっと“慣れた”動き。
そこから、ひとりの人物が現れた。
垂れたウサ耳のついたフード付きのケープ。
首元にはマフラー。口元をすっかり覆っている。
眠たげに細められた瞳。
動きはゆっくりで、気怠げで、緊張感がない。
「……え」
喉が、引きつる。
「キミは……確か……」
頭の中で、記憶が高速でめくれる。
統覇戦、ラグナのチーム。
控えめで、存在感が薄い、不思議ちゃん──
「……ルシア・グレモルドさん……?」
声に出した瞬間、自分でも分かるほど動揺していた。
(え?)
一拍遅れて、思考が爆発する。
(えっ!?ラグナのチームメイト!?あの!?)
心臓が、どくん、と強く鳴った。
ルシアさんは、ただ、こちらを見ている。
眠そうな目で。感情の読めない、静かな視線で。
「え、えっ!?る、ルシアさんが……何で“竜渦”を……!?」
一歩、後ずさる。
「ひょ、ひょっとして……ルシアさんも……真祖──」
そこまで言いかけた、その瞬間だった。
──ガラッ。
世界が、音を立てて切り替わる。
白が、消えた。
視界いっぱいに、緑が広がる。
巨大な樹木。天を突くような幹。
遥か向こうまで連なる、雄大な山々。
澄み切った、雲一つない空。
風が吹いた。
草木が揺れ、葉擦れの音が走る。
遠くで、鳥の鳴き声がした。
……なのに。
(……おかしい)
音はある。質感もある。
でも、どこかが、決定的に違う。
(これは……現実じゃない)
空気が、軽すぎる。
重力が、懐かしすぎる。
「……っ」
俺は、思わず唾を飲み込んだ。
(ま……間違いない……)
忘れるはずがなかった。
忘れられるはずが、なかった。
真祖竜に生まれ変わってから、数十年。
俺が過ごした場所。
俺が“怠け者ども”と一緒に、何もせずに空を眺めていた場所。
──天に浮かぶ、真祖竜の住まう浮島。
『悠天環』。
(……間違いない)
悠天環の存在を知るのは、真祖竜だけ。
人間どころか、竜ですら辿り着けない、閉じた世界。
それを──
ここまで、正確に再現できる存在。
ゆっくりと、視線を戻す。
ルシアさんは、相変わらずそこに立っていた。
この世界の中で、この“懐かしすぎる景色”の中心に。
眠たげな瞳が、静かに俺を捉える。
(……確定だ)
額から、汗が伝い落ちた。
(この人……俺と同じ……)
胸の奥で、言葉が形になる。
(――真祖竜だ)
逃げ場は、ない。
冗談でも、偶然でも、ない。
ラグナの隣にいた、あの気怠げな少女は──
俺と同じ場所から来た存在だった。
俺は、笑えないくらい引きつった顔で、立ち尽くしたまま。
悠天環の“偽物の空”の下で、
久しぶりに出会った"同族"を見つめていた。
◇◆◇
額から、汗が止まらなかった。
じっとり、という生易しい表現じゃ足りない。
だらだら、だ。
真祖竜としての身体が、明確に“警戒信号”を出している。
(……来た理由が、絶対にある)
悠天環の幻景の中で、俺はルシア・グレモルドを見つめていた。
同郷。同族。
それだけで、本来なら懐かしさや安心感があってもいいはずなのに──そんな感情は、微塵も湧いてこない。
(可能性は二つ)
頭の中で、嫌な天秤が揺れる。
(久々に同郷の仲間に会いに来ただけ、っていう“奇跡的に平和な理由”か……それとも──)
ごくり、と喉が鳴る。
(俺を回収、あるいは排除しに来た“刺客”か)
うーん……正直に言うと……
可能性が高いのは、圧倒的に後者なんだよね……
なぜなら俺は──
真祖竜社会の掟を、守っていない。
というか、真祖竜の7つの掟、“七大怠惰戒律”、七つ全部破ってるんじゃないかってレベルでガン無視してる。
思い返すだけで、胃が痛い。
ちなみに、“七大怠惰戒律”の内容は、こうだ。
《第一戒。鍛えてはならぬ。肉体・魔力の鍛錬は未熟なる者の営みなり》
《第二戒。競ってはならぬ。他者と力を比べるは品性の欠如なり》
《第三戒。嫉んではならぬ。羨望は竜の誇りを穢す毒なり》
《第四戒。語ってはならぬ。武勇を語るは己が未熟の証なり》
《第五戒。関わってはならぬ。下位種族との交わりは堕落を招く》
《第六戒。留まるべし。竜は天と地に座す存在なり》
《第七戒。夢見てはならぬ。未来を渇望するは竜の尊厳を損なうなり》
うん。アウトだね。
辛うじて第三戒、第四戒は守れてるかなー?どうでしょう?ってレベル。
それ以外は、そりゃもう完全に現在進行形で破りまくってる。
しかも、だ。
悠天環を出る時の、あのノリ。
『どうせ皆ボーッとしてるだけだし、星降りの宝庫も何百年も誰も触ってないし、ちょっとくらい持ってっても問題ないでしょ!』
みたいな感じで、様々なお宝をマジックバッグに詰め込んで持ち出して来た。
冷静に考えると、完全に犯罪者の思考である。
親の財布から金を抜く不良息子みたいなもんだ。
いや、それどころじゃないかも。
真祖竜の宝物庫──“|星降りの宝庫”。
世界を傾かせるレベルの秘宝が、普通に眠っている場所。そこから、いくつも。
しかも、無断で。
そりゃ、指名手配されてても不思議じゃないよね!
背中を、冷たい汗が流れ落ちた。
心当たりが、ありすぎる。多すぎる。
弁明の余地があるか?いや、ない。
なぜなら、実際にやっちまってるから!
俺は恐る恐る、一歩だけ前に出た。
「あ、あのー……」
声が、わずかに裏返る。
「ル、ルシア……さん……?」
出来るだけ、刺激しないように。
出来るだけ、下手に出る。
しかし、ルシアさんは、動かない。
眠たげな目で、ただこちらを見ている。
瞬きも、ほとんどしない。
表情は、変わらない。
……間。
(……なに、この沈黙。怖いんだけど)
この“ボーッ”とした感じ。妙に力の抜けた佇まい。
ああ、でも……よく考えたら、逆にめっちゃ真祖竜っぽいかも。
悠天環で、何百年もゴロゴロしてた連中と、同じ空気だ。
やる気が無いようで、何を考えてるのか分からない。
だからこそ、余計に怖い。
俺がどう切り出すべきか迷っていると──
ついに、ルシアさんが動いた。
スッ──と。
ゆっくり、両手を前に差し出す。
その指先から……
──ダラン。
糸に吊るされた、小さな影が現れた。
左右に、二体ずつ、合計、四体。
操り人形だ。
木製っぽい胴体。関節は簡素。
人型ではあるが、顔には何の表情もない。
美術室にあるデッサン人形みたいな感じ。
一瞬、拍子抜けしそうになったが──
次の瞬間、ルシアさんが呟いた。
「……“傀儡演舞”。」
空気が、変わる。
ボワンッ!
音と共に、四体の人形が膨張した。
小さな人形は、一瞬で人の背丈を超え、さらに巨大化する。
白い鎧が、身体を覆う。
重厚で、無駄のない造形。
一体は長槍。
一体は大斧。
一体はメイス。
一体は片手剣と盾。
まるで、戦場に立つためだけに生まれた騎士達。
「……えっ?」
間抜けな声が、俺の口から漏れた。
ルシアさんは、淡々と続ける。
「ナイト……ルーク……ビショップ……ポーン……」
その指が、ふわりと動く。
まるで、指揮者がタクトを振るうように。
あるいは、ピアノの鍵盤をなぞるように。
魔力の糸が、きらりと光った。
──ビガーン!!
四体の鎧の隙間。
目にあたる部分が、一斉に銀色に発光する。
ギギギギ……。
軋む音を立てながら、四体の首がこちらを向いた。
そして、同時に――武器を構える。
完全な、戦闘態勢。
俺は、引きつった笑顔のまま、後ずさった。
(……あー……これ、完全に……)
心の中で、嫌な結論が完成する。
これ、俺、真祖竜社会で指名手配されてて……
刺客、差し向けられたパターンのやつじゃない?
まずい。いや、冗談抜きで。
これは、ヒジョーにまずいですよ!!
相手は、同族。
同じ“真祖竜”。
しかも、俺より落ち着いてて、準備万端。
完全に、主導権を握られている。
四体の傀儡騎士の向こうで、ルシアさんは相変わらず眠たげな目をしていた。
感情の起伏は見えない。
ただ、静かに、こちらを見ている。
その視線が、言っている気がした。
──さあ。
──どうするの?
俺は、だらだらと汗を流しながら、拳を握りしめた。
逃げ道は、ない。
いや、あるかもしれないけど、逃げても何もかいけつしない。
話し合いで済むかも、分からない。
でも、少なくとも──
これは、“お茶会の誘い”じゃない。
そう、理解するしかなかった。
◇◆◇
ルシアさんの前に、四体の戦士が並び立つ。
白銀の鎧に身を包んだナイト、ルーク、ビショップ、ポーン。
その足元には、悠天環の大地──かつて俺が何十年も過ごした浮島の幻景が、どこまでも広がっていた。
ルシアさんは、その背後に静かに立っている。
マフラーに隠れた口元、眠たげな瞳。
感情の起伏は読み取れない。
ただ、両手だけが動いた。
それは剣を振るう動きではなく、呪文を編む仕草でもない。まるで──ピアノを奏でるように、指先が、空をなぞる。
その瞬間。
ギンッ!!
四体の騎士が、一斉に地を蹴った。
「──っ!?」
空気が裂ける。
音が遅れて追いつくほどの、凄まじい初速。
最初に飛び込んできたのはナイトだった。
長槍を一直線に構え、迷いなく突進してくる。
「どぅわっ!?」
反射的に叫び、身体を捻る。
紙一重。槍の穂先が頬のすぐ横を掠め、後方の空気が爆ぜた。
(はっや!?)
心臓が跳ね上がる。
同時に、口が勝手に動いていた。
「る、ルシアさん!?キミ、真祖竜だよね!? あ、俺、真祖竜界ではめっちゃ若手だし、たぶん先輩かな!?えっと、その、星降りの宝庫から色々パクってきた件で俺をしょっぴきに来た感じですか!?だったら、まことにすいまメ──」
最後まで言い切る前に。
ズンッ!!
真上から、影が落ちた。
「──ンっ!!」
ポーンと呼ばれた人形だ。
片手剣を、まるで剣道の“面”を打ち込むように、真っ直ぐ振り下ろしてくる。
(はっや!!パート2!!)
考えるより先に、身体が動いた。
パンッ!!
両手を合わせ、真剣白刃取りの要領で剣身を挟み込む。
衝撃が腕を貫き、骨が軋む。
「おおっ!?重──」
その瞬間。
横から、殺気。
「──あぶなっ!?」
視線を向ける間もない。
真剣白刃取りの姿勢のまま、身体をひねり、脚を振る。
ガギィィィーーン!!
ビショップのメイスと、俺の蹴りが正面衝突した。
銀色の火花が、バチバチィィッ!!と弾け、周囲の空間を照らす。
衝撃波が地面を這い、悠天環の幻の大地が低く唸った。
(……いや、強っよ……!)
内心で、思わず舌を巻く。
(これ……真祖竜スキル、“竜牙兵”の応用……!?)
ただのゴーレムじゃない。
動きも、連携も、判断も──生き物に近すぎる。
刹那。
「──っ!?」
今度は、反対側。
ルークが、大斧を振りかぶっていた。
「うっひょー!?」
情けない声を上げながら、両足を開いて跳ぶ。
身体が宙に浮いた、その直後。
ズバァァァーーン!!
斧の一撃が、悠天環の大地を裂いた。
地平線の彼方まで、一直線に亀裂が走る。
……え、これ当たってたら、いくら俺でもまあまあ痛いんじゃない?
冷や汗が、背中を伝った。
ダメだ……完全に、こっちを仕留めに来てる……!?
しかし、反撃すべきか否か。
別の真祖竜と、本気でやり合う──それがどれほどヤバいかは、嫌というほど分かっている。
逡巡。
その一瞬の迷いを、見逃す相手じゃなかった。
ルシアさんの両手が、くるりと回る。
糸が、鳴った。
四体が、同時に動く。
「──っ!?」
ナイト、ルーク、ビショップ、ポーン。
四方向から、一斉に殺到。
武器が同時に振るわれる。
「こりゃ凄い!!」
半ば感嘆混じりに叫びながら、俺は身体を躍らせる。
避ける。跳ぶ。捻る。
紙一重、紙一重、紙一重。
攻撃の嵐の中で、ようやく距離を取った瞬間。
ルシアさんの声が、静かに響いた。
「……どうしたの」
眠たげな声。
しかし、その言葉は、はっきりと俺に向けられていた。
「この子達と戦って……力を示して。アルド。」
──ああ。
その一言で、腑に落ちた。
(なるほど。事情は分からないけど……これは、試練だ)
捕縛でも、粛清でもない。
“俺が、どこまでやれるか”を見に来た。
だからこそ、ここまで全力。
俺は、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
小さく呟き、肩の力を抜く。
「そういう事なら」
視線を上げ、ルシアを見る。
「ちゃんと、言ってくれればよかったのに」
そして、胸の奥に押し込めていた“枷”に触れる。
「“身体弱化魔法”……解除」
その言葉と同時。
ドゥン!!
重低音が鳴り、空間が震えた。
俺の身体から、銀色の魔力が噴き上がる。
圧縮され、抑え込まれていた力が、一気に解放される。
ルシアさんの目が、初めて見開かれた。
「……!?」
次の瞬間。
ドゴォォン!!
轟音が鳴り響く。
ポーンの身体が、ルシアのすぐ横を掠めて吹き飛んだ。
渾身の右ストレートが、目視できない速度でポーンの胴体を穿った。
ポーンの身体は弾丸の様に遥か後方の山へと突き刺さり、ボガァァン!!と山体が崩壊する。
静寂。
俺は、拳を突き出したままの姿勢で、ゆっくりとルシアさんを見た。
「力を示す、って事は……」
低く、静かな声。
「反撃しても大丈夫って事だよね?」
一拍置いて、続ける。
「そういう事は、早く言ってよ」
その言葉に。
マフラーに隠れたルシアさんの口元が、ほんの、ほんのわずかに──
笑ったように、見えた。




