つ『情欲の果実にその身を委ねるか』 前編
やり直しできる期間が、卒業よりも短くなる。
シルク・ラシュタール・エレナは平然とした顔で、俺に言った。元々俺は『卒業までは何度死んでもやり直すことが出来る』という説明をされていた。
どうして急にそうなってしまったのか、あるいは俺が死に過ぎたのか――……それは、あるかもしれない。自分の希望で時を戻した事も、それなりにある。でも、何回死んだらアウトかなんて、そんな事を説明されたことは――
ふと、気付いた。
死ぬことによるリスクというものが一つしか無いとは、誰も言っていないんじゃないか。
「……人々はやり直した時間の記憶を、僅かに残している。時を戻す事による問題は、それだけじゃないのか」
「初めて時を戻した時、純さんは五月から数えて三ヶ月の時を過ごしました。その程度の間隔であれば、卒業まで時を戻す事に問題も出ない予定でした」
実際のところ、俺はこの九月九日までに六回死んでいる。
初めて時を戻した時を換算しないとしても、五回は死んでいる。確かに始めのループから考えると、圧倒的に短い。
……そうか。当たり前の事ながら、気付かなかった。時を戻す事によるリスクがあるのだから、時を戻せる回数だって、当然視野に入れていなければいけなかった。
何でもかんでも説明してくれるまで待っていたら、簡単に破綻してしまう。
「具体的に言うと、どういう所に問題が出るんだ」
シルク・ラシュタール・エレナは辺りをきょろきょろと見回し――いつもと同じように、この姿も『映像』なのだろう。だとするならば、今頃天界で周囲を確認しているといった所なのだろうか。
手招きされて近付くと、シルク・ラシュタール・エレナは耳元で囁いた。
「……純さんには、本来は『やり直しのルール』しか説明することは許されていません。そこは、把握しておいてください」
俺は頷いた。姉さんとは違って全くの一般人である俺が、天界についてそこまで知る訳にもいかないのだろう。
「何度も死んでやり直す事は、即ち人生をやり直す――生まれ変わる事に相当します。記憶を無くした人々にとって言うなら然程の問題はありませんが、純さんには、変化が生じます」
「変化?」
「最近、急に運動能力が上がったり、計算が速くなったりした事はありませんか? それは純さんの中に、『徳』が蓄積されているからです」
――そうか。そう、だったのか。
俺は死んでやり直すたび、自分の能力を向上させているんだ。何度も時を戻す事は、生まれ変わる事に相当する――いつだかケーキが言っていた『徳』というものは、要は人生の経験値みたいなものなのか。
それを繰り返す事で、俺は人の能力を超えた力を手にする事ができる……?
「ですが、本来の人間の身体から考えて、オーバーペースなのですよ。肉体の限界を超えた『徳』は、その人のバランスを崩すのです」
「完全にバランスを崩し切ると、どうなる?」
「私にも分かりません。本来は、『徳』に見合った身体――神の使いや、神になるのが通常です」
なるほど、人ではなくなるのか。……まあ、それはそうか。人の魂が動物や魚に入った時にどうなるか、なんて言われてもピンと来ないもんな。
待てよ。……そうしたら、姉さんはどうなるんだ?
姉さんは本来、『神の使い』になる予定だったんじゃ――……
そうか。だから、姉さんは超人なんだ。元々人の肉体でやれる事の限度を超えているのか。
「これだけ短期間で死ぬ回数を重ねてしまえば、当然純さんの『徳』も飛躍的に上昇します。知らずのうちにリミッターを外してしまい、人間の機能を壊してしまいます」
「……じゃあ、このペースで行くと、卒業まで保たないってのは」
「はい。純さんは、人でいられなくなります」
俺にとってはあまりに雲の上の話で、全く実感が湧いてこない。でも俺は、ワゴン車を走って追い抜いたり、有り得ない距離を跳躍したりしていた。今までにさっぱり運動が出来なかった事を考えると、シルク・ラシュタール・エレナの話が間違いではないと分かる。
時を戻す事そのものが、俺に負荷を掛ける事になっていたのか。
「……あと何回死ねるんだ、俺は」
「分かりません。純さんの耐久力にもよりますが、私もこんな事は初めてですから……」
自分の都合で、時を戻す。
俺が、望んだ事だ。その結果、俺や周りに発生した全てのリスクは、俺が責任を取らなければならない。
俺は頷いた。
「一応、今回は警告のつもりです。まだ純さんには余裕があると、私は見ています」
「ああ……ありがとう。本当は教えちゃいけないんだろ、こういうの」
「でも、死に過ぎて本来の予定を壊している事は、伝えなければいけませんから。どこまでを話して良いのかは、中々難しい所でもありまして」
シルク・ラシュタール・エレナが俺に情報を与える時は、必要最低限教えなければいけない時だけだ。
警告とはいえ、あまり悠長に構えている訳にも行かないか。
「それではー、また、お会いしましょうー。次に会える時はー、純さんの隣に女性がいる事をー、期待していますよー」
再び間の抜けた声音に戻り、シルク・ラシュタール・エレナは俺に手を振って消えた。あのゆるい対応も、彼女自身が大変な重荷を背負っているからなのかもしれないと思う。
変な違和感のようなものは、まだ消えなかったが。
◆
晩飯のための買い物を済ませると、俺は家へと戻った。いかんせん飯を作ることなど普段していなかったので、俺が作れるものはとても簡素なものだけだ。姉さんのようには行かないが、俺も少しは料理のスキルを身に付けないとな。
親父に呼ばれたからという事もあったが、久しぶりに一人の時間が長い日だった。
「今日はカレーにするんですね、純さん」
「簡単だろ。切って煮込むだけ、くらいのものだし」
それでも不安なのだから、自分に情けなさを感じる。包丁なんて、持てるのかな。
俺は部屋の鍵を開け、扉を開いた。
「……ただいまー」
部屋の電気は消えていて、がらんと静まり返っていた。どこかに行っているのかな、姉さん。今日は家にいる筈だけど――……
もしかしたら、咄嗟に仕事なんか入ったのかもしれない。
俺は靴を脱いで、部屋に上がる。リビングは暗闇で、当然のように誰も居ない。
……仕方ない。先に飯を作って、姉さんの帰りを待つか。
「――んっ」
……あれ? なんか、居間の方から声が聞こえる。
よく見れば、居間は電気が点いている。扉越しに、うっすらと明かりが差し込んでいるし――……
ああ、姉さん、居間に居るんだ。
俺は居間へと向かおうと、歩いた。
「……やっ……あ、あああっ……!!」
居間の扉を開こうとして、俺は手を止めた。
なんか、この展開は前にも覚えがあるような……。
俺は食材をテーブルに置き、リビングの電気を消したままで居間の扉を少しだけ開いた。
細い隙間から、中を覗き込む。
「うあっ……ダメ、純くん、純くんっ……!!」
……あー。
居間の床に転がって、姉さんが身体を弄りながら悶絶していた。
どーしよ、これ。見なかった事にしようかな。
よし、見なかった事にしよう。
飯でも作っていれば、どこかで気付いて出て来るだろう……
「じゅ、純さん、あれ」
ケーキに言われた時、俺も気付いた。
なんか姉さん、変……じゃないか? 顔は涙でぐちゃぐちゃ、全身汗だくで……まるで、俺が家を出た朝から続けていたような気さえする。
噛み殺したタオルが転がっているし……
どちらかと言うと、苦痛を感じているように見えた。
「……っく、はやく、かえって、きてっ」
俺は居間の扉を開き、姉さんに姿を見せた。
姉さんが俺を見て、苦痛に喘いでいた表情を緩める。
「だ、大丈夫? 姉さん」
俺は姉さんに近付き、ひとまず身体を起こそうと手を伸ばした。
「あ、だめ!! 触っちゃ――あ、ああああああ!!」
姉さんが制止するも、既に伸ばしかけた手は姉さんの身体に迫っている最中で、俺は姉さんに触れてしまう。
瞬間、姉さんが身体を海老反りにして、何度も痙攣した。
脱げ掛けた服でそんな反応をされると、なんというか……いや、これはアレなのか。本当に山頂に達してしまったのだろうか。
……登山道、短すぎだろ。
その衝撃的な映像を見て、俺は強烈な羞恥心に思わず顔を背けた。
「……何してんの、姉さん」
「……はっ、……はっ」
目が完全に未来の世界に飛んでいた。恍惚とした表情はのぼせ上がったように真っ赤で、ただ肩で息をしていた。
俺は姉さんを抱き起こし、……すごい汗だな。いや、汗じゃない液体も床に溢れているけど。涙とか。……涙だ。涙だと思う事にしようよ。
想像の中でも、言葉にすることは憚られた。
……ま、一応、服は着てるし。
「……なん、か、最近、おかしいの」
あなたはいつもおかしい。
あれ、このやり取り、前にもあったような。
知らずのうちに、こういうやり取りがやがて日常と化してしまうのが、俺はとても怖いよ。
「おかしいって、何が?」
「熱がすごくて、身体が重くて、純くんの子供が欲しいです」
「いや、最後のはただの希望だよね。おかしくないよね。いや一周回っておかしいよおバカ!!」
……俺も自分が何を言っているのか分からなくなってきた。
姉さんは俺にしがみ付くと、とろとろに溶けた瞳で俺を見た。
この表情の姉さんを見るのは、俺としてはかなり危険だ。理性的な問題で。
「ねー、もう姉と弟で良いから、子供つくろうよ」
「バカな事言ってないで、シャワー浴びてきなよ」
あ、姉さんがしょんぼりしている。これが大型犬だったら、耳が垂れている所だろう。なるほど、パスカルの親戚か。
かと思ったら、ふと顔を上げた。
「じゃあ!! シャワー浴びてくるから、そしたら子供」「とっとと浴びてこい」
軽くチョップをして、姉さんを立たせた。……しかし、姉さんの様子は確かにおかしい。少し調子が悪そうなのも、熱っぽい様子なのも本当だ。
――おっと。
姉さんが少しよろけてしまったので、俺は腰に手を回して身体を支える。
身体、熱いな……単に運動していたからとか、そういう事ではなく。
「あ、ありがとう」
『あ、ありがとうございます』
――――えっ?
姉さんの言葉に誰かの台詞が重なって、俺は思わず目を瞬かせた。姉さんの顔に、黒髪の女性の顔が重なったのだ。
日本人とは思えない高い鼻、ルビーを思わせる透き通る紅い瞳。顔立ちも全く似ていないのに、それはどこか姉さんと通じる部分があった。
瞬きをすると、そこにはいつもと変わらない姉さんがいる。
「――純くん?」
……なんだ、今のは。
俺は何も言う事が出来ず、姉さんから離れた。曖昧な笑みを浮かべると、それを問題なしと受け取ったのか姉さんは嬉しそうにはにかんで、風呂場へと向かって歩いて行く。
合宿で暴走した時の姉さんだ。最早別人だと思っていたが、何故こんな所で姿を重ねてしまうのか。
どうして今、声が重なったんだ……?
「純さん? どうしたんですか?」
「……いや」
確かに、タイムリミットは近付いているのかもしれない。僅かな焦燥感を覚えて、俺はソファーに腰掛けた。
モヤモヤとした不安が頭の中を駆け巡る。解決策を打つことが出来ないストレスが、猛威を振るって俺に襲い掛かってくる。
……一体、どうしたら良いんだ。
そうだ、携帯電話。
もしかしたら、シルク・ラシュタール・エレナがまた、俺に何かのヒントを与えてくれているかもしれない。
携帯電話を開き、テキストファイルをスクロールさせた――……
……何も書いていない。
「純くん、石鹸切れてるー」
「あ、はいはい」
どうしようもなく、携帯電話を閉じてテーブルに置いた。リビングの電気を点灯させ、戸棚から石鹸を出す。
シルク・ラシュタール・エレナとは、さっき会ったばかりだもんな。そう何でもかんでもヒントが出ると思ってはいけない……のだろう。
いや、俺が新しい彼女を作れば、姉さんの問題も同時に解決するんだ。早く、姉さんを俺という名の呪縛から解放させてやらなければ。
姉さんの妙な様子だって、それで解決するのだから。
「はい、石鹸――――」
――おわっ。
扉を開けて石鹸を差し出すと、腕ごと掴まれて中へと引っ張り込まれた。
俺が風呂場に入ると、姉さんはすぐに扉を閉める。もうもうと立ち昇る湯気の中、俺は風呂場の扉に背を付けて、その姉さんの表情を確認した。
いや、俺、まだ服着てるんですけど……
「……ね、姉さん? ……俺、夕飯の支度しないといけないん、だけど」
……聞こえてない?
なんか、様子が変だぞ……? シャワーも出しっ放しだし、今日は俺に迫る勢いも普段の三倍増しだ。何でもかんでも肉体的に迫れば良いってもんじゃ、ない。
俺は扉を開き、外へと出た。姉さんは呆然とその場に立ち尽くしている。
……なんか、怖いぞ。
「じゃ、じゃあ、ごゆっくり……」
俺は扉を閉めて、風呂場から離れ――えっ? ちょっと、扉を開くなよ。こっちに来るなよ。あんたまだ全身濡れたままで――……
待て、何だその目は。まるで俺が捕らわれの兎であるかのように、ぎらぎらと獲物を狩るような目で俺を見ている。
――なに、これ。やばい。