つ『情欲の果実にその身を委ねるか』 後編
俺は姉さんから後退る。姉さんは何かと葛藤しているのか、俯いていて表情を確認する事が出来なかった。
「姉さん? 姉さん、俺の声、聞こえる?」
「……抱いて……」
「ねえお姉さん俺の声聞こえる!? おーい!!」
姉さんの強烈な速度のステップによって一瞬にして距離を詰められた俺は、逃げようとしてバランスを崩し、盛大に廊下に尻餅を付いた。
上から覆い被さるように姉さんはおいおいおいどうしたあんた大丈夫か!?
「ちょっ……姉さん、待っ……むぐっ」
濡れたままの身体を押し付けられた。有無を言わさず、姉さんが俺に迫ってくる。
まるで獣だ。まるで文字通り、襲われているような……一体、何が起こっているんだ? 姉さんは俺の言葉には反応せず、肉欲のままにというか……肉欲のままに、キスをしていた。
姉さんの身体が、熱い。風呂に入っていたから、というだけでは無さそうだ。シャツに手を掛けられ、強引に上へと引き上げられる。
俺はそれを、どうにか抵抗していた。
「……んっ!! ……んん、ふえはっ……」
唇が塞がれているので、呼び掛けようにも言葉にならない。力が強すぎて、俺の腕力では抵抗する事もできない。
姉さんは俺の服を脱がせる事を諦めたのか、今度は横に引っ張っ――おいちょっと、マジか!?
シャツは破かれ、上半身が露出した。ああ、頑張って小遣い貯めて買ったやつなのに……
いや、そんな事を言っている場合じゃない!!
インターフォンが鳴った。
……誰か、来たみたいだ。
「ふえは、ふえっ!! ほい、んっ……!!」
……駄目だ、残念ながらお帰り願うしかないだろう。姉さんは俺のベルトに手を――駄目!! それは駄目!!
唇が塞がったまま、俺は右手でどうにか姉さんの手を拒んだ。なんだ、この力の強さは。おかしいだろ。
インターフォンがもう一度、鳴った。……誰だ? 杏月か? 杏月だったら、助けて欲しいけど――……
今日杏月は穂苅の実家から俺を見送った所なので、この時間に現れる事はないだろう。
……ん? 待てよ、だとすると誰だ? ネット注文した野菜の宅配は確か、もう姉さんが受け取った筈で。
やばい、呼吸困難で意識が朦朧としてきた……俺はどうにか、頭を引いて姉さんから唇を離した。
「――姉さん!! 目を覚ませ!!」
ふと、気付く。
視界の向こうで、バケツが宙に浮いていた。ポルターガイスト現象ではなく、ケーキが運んでいるのだ。
中にはどうも、水が入っているように見える。――なるほど、冷水か。頭を冷やす作戦は悪くない。
「純さん、いきます!!」
ナイスだ、ケーキ!! お前も成長したじゃないか!!
ケーキはバケツを構え、それを姉さん――と俺に向かって、逆さまにした――――
瞬間、廊下の向こうで音がした。
「……純君? いるの?」
――えっ。
廊下の向こうで、扉が開く。……玄関から顔を出したのは、青木瑠璃。
廊下で揉み合っている俺と姉さんに向かって、冷水が振り撒かれた。
バシャン、と痛快な音がした。冷たさと共に、場の空気も凍り付いていく。
「……えっ?」
水の音に声を漏らして、瑠璃がこちらを向く。
――――沈黙が訪れた。
姉さんの亜麻色の髪から、ぼたぼたと水が垂れる。その長髪の向こう側にある顔は、俺を見て目をぱちくりとさせていた。大きな赤銅の瞳が、限界まで見開かれている。
俺といえば、姉さんに乗られたままで上半身は裸、破けた服が廊下に落ちている。その状態のまま、玄関口を見ていた。
玄関口から顔だけ出した瑠璃が、俺と姉さんを見ている。
廊下の電気は点いていない。……ついでに、そこら中水浸しだ。
姉さんが顔を上げて、俺の目線の先を見る。――自分の身体を見ている。そして、水浸しになった風呂場からここまでの通り道を見ている。
風呂場のシャワーはつけっ放しで、今も風呂場から湯気が出ていた。
「……えっ!?」
良かった。目が覚めたのか、姉さん。それなら、俺としてはそれ以上の事はないよ。
姉さんは――多分、とてつもなく恥ずかしい姿を瑠璃に見られているという事実に気付いたのだろう。まず胸を隠し、まず立ち上がり、そして――風呂場に逃げ帰った。
なんというか……うん、水が冷たい。
こんな時、俺は瑠璃にどんな反応をすれば良いんだろう。
最近、人生初めての出来事って多いなあ……こんなにもやるべき事が思い浮かばないのは、レイラを海に投げ込んで以来だな。ああ、思えばあれもすごかった。
瑠璃は買い物袋をぶら下げて、俺に見せた。
「こんばんは、純君!」
――あ、流した。
いや、それは無理があるだろ。流石に水浸しが過ぎて、水に流すことは不可能だ。
「いらっしゃい。どうしたの?」
「うん! 実はね、実家から美味しいたくあんが届いたから、お裾分けしようかなと思って持って来たんだ!」
そりゃまた、すごいタイミングで来たね貴女も。
瑠璃はいつもタイミングが悪いというか、ここまで来るともうタイミングが良いんだな、多分。コントとして。
「え、いいの? ありがとう、わざわざ」
「いや、こちらこそごめんね! まさかアトランティスごっこしてる真っ最中だと思わなくて!」
なんだよアトランティスごっこって。
「……もし良かったら、今日カレーなんだ。一緒に食べてく?」
「あ、うん、そうしよっかな。……気まずいし」
ちょっと本音が出た。
……やれやれ。姉さんは今頃、どうしているんだろうか。耐え難い羞恥心をかき消すために、必死で身体を洗っているかもしれないけれど。
姉さんだって、俺以外の誰かに肌を見せる事は好きではない。変態だけど、一応厳密に言えば痴女ではないのだ。
「ちょっと着替えてくるから、待っててくれる?」
「あ、うん!! はい!!」
高揚した――と言うよりは羞恥心を抑えているような声音で、飛び上がるように瑠璃が言う。まあ俺の声に気付いて入って来たのだろうから、俺が姉さんを襲っていたという酷い勘違いはされないだろう。
姉さんは勘違いどころか全力で暴走してしまったので、もう後に引けないだろうけど。
――ん?
そういえば、これも暴走なのか? ……今の。……暴走、だよなあ。姉さんの意識の中では、コントロールできない何かが起こっていたような気がする。
実際、水を掛けられてからの姉さんは、割と普通の態度だった。
もしかして、また俺を殺そうとしていたり――……
いやいや。今回は俺を殺すタイミングなんて、幾らでもあっただろう。それこそ首を絞めてしまえばそれまでだったし、恨み辛みを口に出すような事もなかった。
ならば、やっぱり姉さんはただ、情欲を抑え切れなかっただけなのだ。
……そうだろうか? 居間で見た姉さんはどちらかと言うと辛そうだったし、先程の様子はまるで、そうしていなければ意識が途切れてしまうかのような必死さを感じた。
俺は寝室の扉を閉めて、服を脱いだ。
「……あ、ケーキが居ない」
一瞬の栄光だったか……
さて、風呂から出てからの姉さんは、それはもう酷い状態だった。寝室に閉じ篭もり、瑠璃はおろか俺とも一切顔を合わせないままに、カレーが出来るまで塞ぎ込んでしまった。
最近は姉さんの周囲に対するガードが緩くなっていたような気がしていたが、主に杏月と一緒だった為なのだろう。恥ずかしいものは恥ずかしい。姉さんとて裸で街を歩ける訳じゃなし、一個人としてのマナーも常識もあるのだ。
その常識が、俺との間では崩れてしまうだけなのだろう。
カレーをよそって配りながら、俺は顔を真っ赤にして俯いている姉さんと、気まずそうに向かいの席で姿勢を正している瑠璃を見て、苦笑いを隠すことができずにいた。
「はい、姉さん、カレー」
「……ありがとうございます」
穴があったら入りたい、といった所だろうか。まあでも、姉さんは正気を失っていたので仕方が無いと言えば、そうだ。姉さんにとってはそういう問題でもないのだろうけど。
俺に迫っていた時間の記憶があるのかどうかが、非常に気になるけれど……
「お、お姉さん! 人魚姫ごっこをしていたんですよね! 分かります!」
さっきアトランティスごっこって言ってただろ。そして、それは逆効果だ。
「……まあ、食べよう。瑠璃がたくあん持って来てくれたよ、姉さん」
「ありがとうございます」
俯いて礼を言うだけの機械と化している姉さんに苦笑して、俺は席に付いた。
もう少し、元に戻るには時間が必要だろうな。何事もなかった顔をしておいてあげよう。
思いながら、カレーをスプーンですくう。一応味見はしたけど、味付けの方は大丈夫だろうか。
インターフォンが鳴った。
なんだよ、今日は来客が多いな。
席を立ち、俺は廊下へ。二人にするのは、少し肩身が狭いが……
俺はカメラを確認する。
……なんか、青い。
「……穂苅ですけど」
『おお、純!? マジこのカメラカッコ良くね!? カメラに見えないし、マジイカスわ』
「多分お前が見てるの、それカメラじゃない。ボタンだ」
ぬっ、と君麻呂の顔が現れる。……鼻の穴が大きい。相変わらず、面白い顔するなあ。
変顔さえしていなければ……こいつ、普通の顔はそれなりに整っていて、格好良い――可愛い方だと思うんだけどな。あ、あと髪色が普通なら。
何でヴィジュアル系気取ろうとして失敗したみたいな髪型をいつまでも貫いているのだろうか。
『っづぇぇな!! エスプレッソジョークだよォ!! 理解しろよ!!』
「ちなみにブレンドはあるのか」
『あ、それはないわ。常識的に考えて』
無いのかよ。それよりも、一番始めの謎の掛け声(?)はなんて言ったんだよ。
うぜえな、かな。多分。
「……で、何?」
扉が激しい音を立てて開き――お前、それ人の家の扉。俺は受話器を持ったままで、玄関口を見た。
キモ面白い顔の葉加瀬君麻呂が現れた。……物凄く眉毛が目立つのはどうしてなんだろう。どうしてこの人、こんなに眉が動くんだろうか。
人種が違うんだな。きっと。南エスプレッソ人か何かなのだろう。
「俺は今日、緊急企画会議を開く事にした!!」
「そうか。まあ、頑張れ」
俺は君麻呂を蹴飛ばして外に出し、扉を閉めた。ついでに鍵も閉める。
いやあ、何か変なモノを見たような気がするけど、多分俺の気のせいだろう。俺は廊下を歩き、食卓へと戻った。
……こっちはこっちで、なんとも言えない空気だ。
でも過ぎ去った過去は拭えないと気付いたのか、姉さんはぎこちなく瑠璃と話をしていた。流石に瑠璃も姉さんの様子が異常だと気付いていたようで、特に修羅場にもなっていない。
「……あ、純くん、おかえり」
「ただいまー」
「……誰だったの?」
「え? ……ああ、乳酸菌飲料の勧誘だったよ」
「そっか」
インターフォンが鳴り響いた。……うるさいよ。連打するな。しかも妙に速い。
姉さんと瑠璃が怪訝な表情を浮かべたので、俺は再び席を立ち、玄関口へと向かった。カメラを確認すると、そこには見知った顔が中指を立てて待っていた。
……物凄く腹の立つ顔だ。
俺は玄関へと回り、扉を開いた。
扉が開かれる。……どうやら、既にドアノブを握っていたらしい。
「あっ!! ゴラ純!! 純のくせにもう少しピュアなっごォ!!」
何も言わず、扉を無理矢理に閉めた。
今の俺にとっては、君麻呂の力など本気を出せば一捻りである。
今度は鍵を掛け、チェーンも掛けて、と。
ついでにインターフォンの受話器を外したままにして、俺はテーブルへと戻った。
「おかえり、純くん。誰なの?」
「ああ、サルモネラ菌飲料の勧誘だったよ」
「すごい勧誘だね……」
瑠璃が真に受けているが、俺は気にしない。
姉さんも俺の言葉を気にしている様子はない。そういえばこの面子では、ツッコミを入れる人間も居なかった。
俺はテーブルの上でたくあんを食っている、ケーキを見る。椅子に座ると、テーブル上のケーキを俺の膝の上へと誘導した。
「純くん、カレー美味しいよ。ね、青木さん」
「うん、美味しい。純君、料理もできるんだね」
「ルー入れて煮込むだけだから、料理ができるとは言わないよ」
「そんな事ないよっ! ねー?」
「ねー?」
姉さんの態度に、瑠璃が頭に疑問符を浮かべながら応対していた。……うーむ。姉さんの方が甘々というのはあるけど二人共タイプが似ていて、この二人は割と相性良いよな。
ここに杏月が現れると、一瞬にして場が乱れたものだが。
うむ。今日は平和だ。カレーがうまい。
「……純君」
「ん? 瑠璃、どうしたの?」
「すごい音、聞こえるんだけど……」
ちなみに、玄関口から借金取りが家に訪れた時のような音が鳴り続けている。
おそらく玄関扉ではベルリンの壁をぶち壊す意気込みで君麻呂が扉を叩いているのだろう。
俺は諦めて席を立った。
「純くん、私、出ようか?」
「んん、大丈夫だよ。多分、上腕二頭筋飲料の勧誘じゃないかな」
「え、なにそれ気持ち悪い……」
平和な食卓の場に平和なジョークを飛ばして、平和な笑いが訪れた。アハハハハ。
俺は振り返る。
――般若の如き形相で背後に青い炎を燃え上がらせ、指を鳴らし、玄関口の扉を開いた。
「おいコラ!! じゅっふゥ!?」
扉の主に直接、ヤクザキックをかます。
「帰れよ」
「げほっ、げほっ……俺ちゃんが素晴らしい企画を持って来てやったんだろォ!?」
「帰れよ」
「……いや、ごめんなさい。話だけでも聞いてください」
どうして、こんな奴に付き纏われるようになってしまったのか。




